記者会見「大脳のシナプスの揺らぎと記憶」研究成果
記者会見「大脳のシナプスの揺らぎと記憶」
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大脳のシナプスの揺らぎと記憶
1.発表日時: 2008年12月1日(月) 14:00~
2.発表場所: 東京大学医学部教育研究棟2階 第1セミナー室(別紙地図参照)
3.発表者: 河西春郎 教授
(大学院医学系研究科附属疾患生命工学センター 構造生理学部門)
4.発表概要:
大脳のシナプスは学習や経験により機能や大きさを変える。今回、我々は学習刺激がなくてもシナプスは長期的な揺らぎを示すことを見出した。この揺らぎは我々の記憶の持続や忘却、適応性や創造力など多くの精神現象と関係することが示唆された。
5.発表内容:
大脳の働きを司る神経細胞は大樹のように見事な枝(樹状突起)を多数伸ばし(図1)、その枝には1ミクロン以下の大きさのとげ(スパイン)が無数に生えています(図1B)。このとげに神経細胞間の接合部(シナプス(注1))ができます(図1B及び図2)。このシナプスによって作られる神経細胞の回路で情報が処理されることにより、我々の脳は高度な機能を営むことができます。この回路の動作を決めるのがシナプス結合の強さです。
面白いことに、大脳でシナプスの出来るスパインの形は著しく多様で、それには深い意味があると考えられてきました(図2)。我々は新しい顕微鏡(2光子励起顕微鏡(注2))を用いることによりスパインの大きさがシナプス結合の強さを決めていること、そして、学習によってスパインの大きさが変わることなどを、世界に先駆けて明らかにしてきました。スパインは脳の記憶素子の様です。
さて、それではスパインの大きさは学習によってのみ変化するのでしょうか。今回、我々は多数のスパインの体積の変化を数日間に渡って精密に測定した結果、スパインは学習による変化(図3赤)以外に自然の揺らぎ(図3青)があり、これに伴いシナプスの新生や消滅も自発的に起きていることを明らかにしました。これまでは、シナプスの結合は学習によってのみ変わると考えられてきましたので、これは大変意外なことです。しかし、この揺らぎの効果は大きく、これまで説明不可能であったシナプスや脳の性質を沢山説明できることがわかってきました。
たとえば、この揺らぎが大きい程、一度覚えたものを忘れ易いでしょう。それでは、どうして、シナプスは揺らぐのでしょう。シナプスは生きている小さな構造ですので、それに伴い必然的な揺らぎが起きてしまうと考えられます。記憶力のいい人ほど、揺らぎが小さい良いシナプスを持っているのかもしれません。
面白いことに、学習によっては中くらいの大きさのシナプスしか作られません(図3、スパイン体積0.2 ?m3)。本当に長く持続する大きなシナプスができるには、何度も学習することにより、中くらいのシナプスから揺らいで大きなシナプスが形成される必要があります。これが、長く続く記憶には反復学習が必要である理由であると推察されます。
それでは、何故、学習によってすぐに大きなシナプスが出来ないのでしょう。もし、大脳のシナプスがその様に設計されていたら、我々の脳はその日の記憶で一杯になってしまい、昨日の記憶を忘れ、何十年にもわたる社会生活が営めないでしょう。また、不必要な記憶によって悩まされる重大な障害(PTSD(注3))が起きるかもしれません。即ち、シナプスは学習と揺らぎをうまく使って、後に残す記憶を少しずつ選んでいると考えられます。
脳の記憶素子スパインは、計算機の様に0,1の二つの状態だけとるのではありません。スパインの大きさによって決まるアナログの値を持っています(図3)。しかも、このアナログの値は、ゆっくりとしか変われないので、すぐに随意の値にセットできず、大きな値を取るには日数がかかります(図3)。そして、大きくなるとなかなか消えなくなります。つまり、より長く持続したスパインほど大きな値を持ち、長く残り易いということになります。随分、変な性質を持つ記憶素子であると言えます。こんな素子は人工的な記憶装置の中では使われていません。そこで、この記憶素子を脳が使っていることの意味を考えてみます。19世紀の心理学者エビングハウスは一度覚えた記憶を忘却する時間経過を測定し、忘却曲線を求めました(図4)。記憶の減衰は初め速く進行しますが、1日経つと減衰し難くなりました。即ち、少し長く持続した記憶は長く残り易いという、有名な記憶の法則を発見しました。この法則は、人々の経験とよく一致し、1885年に本が刊行されるとすぐ万人の認めるところとなったそうです。たとえば、一夜漬けの暗記はすぐ忘れますが、以前から覚えていることは容易には忘れません。しかし、記憶が何故このような性質を持つのか説明されていませんでした。我々の見つけたスパインの法則、「長く持続したスパインほど長く残り易い」は、エビングハウスの見つけた記憶の性質を自然に説明します。我々の記憶の新しいものは小さなスパインに、古いものほど大きなスパインに堆積するように残っていくと推察されます(図3)。
さて、スパインの揺らぎにより自然な生成消滅も毎日沢山起きており、新たな神経回路が毎日偶然に(ランダムに)作られていきます。脳は日々の経験や学習によりこの中から役に立つものを選び、いらないものを捨てていくと考えられます。この大量のシナプスの生成消滅により、我々は高い環境適応力を持ち、その偶然の流れに乗って創造力を獲得するのではないかと推察されます。この様にシナプスの揺らぎは大変重要な意味をもっているようです。
大脳のスパインは知情意に関係するすべての領域に存在し、それぞれの領域の記憶を担っています。スパインの揺らぎや学習で我々の心が構築され、またそれらが様々な精神疾患に関係する有様が、今後具体的に解明されていくでしょう。
6.発表雑誌:
Journal of Neuroscience (12月10日号発表予定)
“Principles of long-term dynamics of dendritic spines.”
Yasumatsu, N., Matsuzaki, M., Miyazaki, T., Noguchi, J. & Kasai, H. (2008). In press.
7.注意事項:
解禁日時 日本時間 12月9日(火) 午前6時
8.問い合わせ先:
東京大学大学院医学系研究科附属疾患生命工学センター 構造生理学部門
教授 河西春郎
9.用語解説:
(注1)シナプス:神経細胞が情報のやりとりをする接合部。大脳の興奮性シナプスではグルタミン酸を伝達物質とする。シナプスの結合強度はシナプス後部のグルタミン酸受容体の数によって決まる。
(注2)2光子励起顕微鏡:超短パルス光を用いて、臓器の内部の微細構造や分子過程を観察したり操作する顕微鏡法。スパイン研究の主役を担っている。
(注3)PTSD (心的外傷後ストレス障害):外傷的な出来事に暴露された後、その出来事が反復して想起され、夢に現れ、再現するように感じ精神不安を来す障害。
10.添付資料:
この資料の図は下記のURLから提供しています。
http://www.bm2.m.u-tokyo.ac.jp/press/2008-012C.html