大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料二十九
江戸幕府大老井伊直弼 (1815年~1860年) は、安政の大獄により人々を弾圧した人物とも、反対論を抑えて開港を断行した人物とも言われ、毀誉褒貶、評価の定まらない人物であった。『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料』は、井伊家にあって戦前厳重に梱包されて開かれることのなかった直弼関係史料を、1959年第1巻出版以来半世紀を越えて広く研究に供し続け、2016年ここに紹介する第29巻 (1861 - 2年分) を以て本編を完結した。
最近の数巻では、直弼政権末期から久世広周・安藤信正政権の課題である和宮降嫁に関する史料が内容も豊かで注目される。従来、直弼が権力の絶頂にあった万延元年 (1860年) 2月、京都所司代が動き縁組工作が開始するとされていた。ここに収められた史料によれば、同月関白 (皇后の実父) が「(比較的安定している) 今のうちに深慮し、公武一和して朝廷と幕府が水と魚の如き関係になるように」と直弼側に働きかけた。それを受けた直弼側の条件に沿って関白の使が、和宮の婚約者有栖川宮家に「宮の御為です」と破談の圧力をかけたのである。所司代は手先に過ぎなかった。このときの使の書状をみると「宮の御為」の裏面に「注意」と朱書付箋が付いており、第三者が、関白と大老の力で政治が動く一瞬を印し、取扱に注意を促したことがわかる。
そして第29巻では新たな主題として、島津久光上京が加わる。この迫り来る危機を将軍徳川家茂に伝えるべく、彦根藩関係者は大老時代の大奥人脈を使い将軍生母に働きかける。元直弼派であり今は関係を絶った家茂側近の一人がこれを握りつぶす。「もはや今日限り何も申し上げまい、生母様より直にと思ったけれど、案外のこととなった。将軍家の御運もこれ限り。最期は藩主も藩士ともに討ち死にするしかない」となすすべもない彦根藩士の書状が、力関係の激変を物語っている。
政治の一局面を示す史料を他の史料と組み合わせ、流れや対抗軸を明らかにして、政治史を構築する醍醐味を味わえる史料集と言えよう。
しかも、幕府中枢にいた直弼には、各部署からの職務案件書類が残された。それは中下級役人の勤務評価であり、京都遊郭の身上げ遊女書上・集客統計などである。前者は下級武士社会を知る新しい材料であり、後者は京都の経済的安定を測る指標であるが、江戸時代の性産業の動向を示す貴重なレファレンスともなる。第29巻でも、特定の関東取締出役が彦根藩邸に出入し、直弼死後も重要な村落や近隣藩の動静を伝えている風説を収めた。こうした出役の存在は、村落支配と政治の関係に新しい論点をもたらすものである。
『井伊家史料』の最終完結 (補遺編と索引データベースを予定) により、ペリー来航前後から開港直後に到る、日本社会が世界的政治経済システムに包摂される10年余の政治変動が、その中心人物の史料を通して明らかとなり、幕末政治史研究の新しい進展が期待される。
(紹介文執筆者: 史料編纂所 教授 横山 伊徳 / 2016)
本の目次
文久元年辛酉 1-29号
文久二年壬戌 30-110号