さとりと日本人 食・武・和・徳・行
本書は、この日本列島に住み、日本語を使って考えた人々が、外来の思想・文化として伝えられた仏教から何を学び、どのように世界観や人間観の新たな次元を切り拓いていったのか、そのさまざまな軌跡をたどろうとしたものである。
仏教の原点は、釈迦の菩提樹下での「さとり」である。釈迦が「さとり」の経験を通じて体得した教えが、広く南アジアから東アジアにかけて広がった。各種の資料によれば、日本には六世紀中葉に、朝鮮半島経由で中国仏教が伝来したという。日本に伝来した仏教は、出発点である釈迦の教えから大きく変化したものであった。しかし、そのような中で一筋の糸が途切れずに継承され、さまざまな文化や思想の創造を促した。私は、その一筋の糸として、仏教の基本的な教義としての「無我」「無常」「空」そして「縁起」を想定する。仏教の原点としての「さとり」とは、これらを自己の心身において体得する体験なのである。
本書の中でたびたび触れるように、「無我」とは、自己を含めてあらゆるものが固定的、不変的ではないということであり、「無常」とはすべてが移り変わっていくということである。そして、「空」とはよく誤解されるように空っぽで何もないということではなくて、固定的で不変的なものは何もないということであり、これも「無我」と同一の事態を意味する言葉である。では、「無常」「無我」「空」であるものが、なぜ「今、ここ」にあるのか。それを説明するのが「縁起」である。
「縁起」とは、時間的にも空間的にも、さまざまな原因によってものごとが成り立っているということを意味しており、それは「関係的成立」と言うことができる。さまざまな関係の網の目の結節点が、「今、ここ」にいる「この私」である。それは、他との関係の中で、「今、ここ」においては、このようなものとして立ち現れているが、関係が変われば、また時間空間の推移変動とともに「場」が変化していけば、移り変わっていく。
このような仏教の発想は、「今、ここ、この私」の真のあり方を探求すると同時に、「今、ここ、この私」に徹することにおいて、人類の歴史の中でいつのまにか当たり前と考えられてきた、「持つこと、支配すること」を手放しでよしとする考え方を相対化する発想でもある。それは、自己と他者、自己と世界とを分断されたものとして見ない「連続性」の発想ということもできるだろう。
本書においては、以上のような発想を持つ仏教が、日本の思想・文化に与えたものは何かということを、食文化、武士道、「和」の精神、茶道、「徳」の思想、修行と修養、共生などを切り口として浮き彫りにする。昨今、日本思想研究分野では、個々の研究対象の詳細な分析に集中するあまり、「日本思想とは何か」という基本的かつ根本的な問題が研究者の意識から抜け落ちる傾向が目立つ。本書はそのような傾向に抗するささやかな試みであると同時に、仏教の発想を現代に生かそうとする企てなのである。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 頼住 光子 / 2018)
本の目次
第二章 武士の思想と仏教
第三章 和とは何か ──「和を以て貴しと為」と「和敬清寂」
第四章 徳という思想
第五章 「修行」から「修養」へ ── 日本仏教の中世と近世
終 章 共生の根拠 ── 仏教・儒教・神道