東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

白い表紙にモノクロで書名、写真

書籍名

<救済> のメーディウム ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ

著者名

竹峰 義和

判型など

472ページ、四六判

言語

日本語

発行年月日

2016年9月26日

ISBN コード

978-4-13-010130-1

出版社

東京大学出版会

出版社URL

書籍紹介ページ

学内図書館貸出状況(OPAC)

<救済> のメーディウム

英語版ページ指定

英語ページを見る

本書は、ヴァルター・ベンヤミン、テーオドア・W・アドルノ、アレクサンダー・クルーゲのテクストを、「救済」という思考形象に着目しつつ、メディア美学的な観点から読解することで、フランクフルト学派の芸術・メディア論に新たなパースペクティヴをもたらすことを企図している。中心をなすのは、これら三人の思想家に共通する、メディア技術によって媒介された芸術作品を、一種の「追想」の媒体として読み替えようとする姿勢である。というのも、彼らにとって芸術作品とは、支配体制によって抑圧され、忘却されたものの存在を感覚的に経験することを可能にするものであり、さまざまなテクノロジーは、芸術作品に内在するそのような潜在的可能性を拡張することに寄与するものにほかならないからである。さらに、狭義における芸術作品のみならず、映画にも (さらには、クルーゲにあってはテレビ番組にも)、受容者の知覚のなかでそれぞれの感情や経験と抑圧されたものを結びつけるというメシアニズム的な潜勢力が備わっているのである。
 
第I部「救済の美学」では、「救済」とメディアをめぐるベンヤミンの思考の展開過程を再構成することが試みられる。その手がかりとするのが、初期ベンヤミンの著作を特徴づける「遊戯」という概念であり、それはのちの技術メディアやその知覚形式をめぐるベンヤミンの省察へと受け継がれていくことになる。
 
第II部「メーディウムとしての芸術作品」では、芸術についてのアドルノの思考の弁証法的なダイナミズムに迫る。一般にアドルノは生涯にわたってエリート主義的な芸術観に固執しつづけたと見なされてきた。だが、アドルノの芸術哲学的な著作には、一種のメディア美学の萌芽とも呼べるような個所も含まれているのであり、さらにそこではメディア的な複製技術だけでなく、キッチュと呼ばれる現象も扱われているのである。
 
第III部「変容する投壜通信」では、アドルノにおける知覚媒体としての芸術作品というモティーフが、その思想的な弟子にあたるアレクサンダー・クルーゲによって受け継がれ、『公共圏と経験』(1972) をはじめとする理論的著作や、さらにはクルーゲが1980年代から現在にいたるまで継続しているオルタナティヴなテレビ番組の制作の原動力になっていることが示される。
 

(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 竹峰 義和 / 2017)

本の目次

序論  フランクフルト学派のアクチュアリティ
 
第I部  救済の美学
1.「無声映画の革命的潜勢力」――初期ベンヤミンにおける <沈黙> と <音楽>
2.解体と再生の遊戯――ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」について
3.[補論1] 外来語の救済――初期アドルノにおけるクラウス的モティーフ

第II部  メーディウムとしての芸術作品
4. 芸術の認識機能――アドルノのシェーンベルク論をめぐって
5. 破壊と救済のはざまで――アドルノ美学におけるキッチュの位置
6. [補論2] 挑発としての擬態――アドルノの文化産業論再考

第III部  変容する投壜通信
7. 投壜通信からメディア公共圏へ――アドルノとクルーゲ
8. 労働のメタモルフォーゼ――ネークト / クルーゲ『歴史と我意』をめぐって
9. マルクス主義の死後の生――クルーゲ『イデオロギー的な古典古代からのニュース』
 

関連情報

第8回表象文化論学会賞受賞作
http://www.repre.org/association/awards/8/

第30回和辻哲郎文化賞(学術部門)授賞作
http://www.himejibungakukan.jp/wordpress/wp-content/uploads/2018/02/gaku30.pdf

書評:
海老根剛『表象』11号 (2017), pp.279-283.
柿木伸之『図書新聞』3297号 (2017)
田中 純『UP』」535号 (2017), pp.31-35.

このページを読んだ人は、こんなページも見ています