東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

キノコや皮膚の標本の写真

書籍名

日本のムラージュ 近代医学と模型技術 皮膚病・キノコ・寄生虫

著者名

石原 あえか (著)、 大西 成明 (写真)

判型など

168ページ、並製

言語

日本語

発行年月日

2018年1月

ISBN コード

978-4-7872-3430-8

出版社

青弓社

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ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』で、外科医を志す主人公の解剖実習場面が気になり、イェーナ大学医学部解剖学博物館 (一般非公開) を訪ねたのが、約20年前のこと。その10年後、「ゲーテと医学」の研究課題に取り組み、ゲーテが晩年までその有効性を訴え、医学分野での活用を唱えた蝋製標本「ムラージュ」に強い関心を抱いた。
 
だが、まさか自分が、7年もかけて日本国内に現存するムラージュを調査し、各大学皮膚科教室の歴史もまとめて本にするとは考えもしなかった。プロジェクト開始後も、さまざまな導きの糸を縒り合わせ、テクストに織り上げるまで、想像以上の困難と忍耐を要した。長く暗いトンネルを手探りでひたすら進むような、本当に難しい本だった。
 
文章だけで立体標本を描写するには限界があり、写真の助けを借りた。研究分担者の写真家・大西氏が何万枚も撮りためた画像から、妥協せず、狙い通りの写真を選んだ。でも本書は写真集ではないので、決して写真だけ先行してご覧になりませぬよう。冒頭はあえてストイックに文字だけ、歴史や意義を説明しつつ、画像も基本かつマイルドな印象のものから一般書にギリギリ掲載可能な高度な症例まで少しずつ目を慣らすよう、緻密に計算した構成をご堪能あれ。重い医学史的内容を扱いながらも、シリアスになりすぎないよう言葉を厳選し、読者が息抜きできるよう、途中にユーモラスな寄生虫や可愛いキノコも配置した。最後は「和製ムラージュ絶滅」の悲劇で終えず、ドイツの保存・修復活動を示し、一条の希望の光が射す工夫もある。
 
心残りはいろいろある。まず諸事情から本学皮膚科が所蔵していたムラージュ (現在、医学部標本室所蔵) 写真の掲載を諦めなければならなかったこと。強すぎるインパクトや誤解を招く可能性から断念した素晴らしい写真の数々。ムラージュは「蝋製模型標本」だが、複雑かつデリケートな多くの問題があり、管理者の解釈や扱いもまちまちで、明確なガイドラインがない。言い換えれば、本書はそのガイドライン作りの試行品だ。他方、問い合わせを無視されたり、途中で調査がペンディングになったりした施設もある。何より過去数十年間に複数の大学医学部が一挙に大量のムラージュを廃棄した事実こそ、協力した多くの患者たちと学問の黒衣に徹した寡黙なムラージュ師を思うにつけ、胸が痛む。
 
ドイツ語圏で文学研究者であることを理由に、自然科学系施設での調査を拒否されたことはない。他方、日本では文・理の境界超越・交流が期待されながら、「ゲーテ研究者」ゆえに窓口交渉から難儀し、妙な組み合わせだと首を捻られる。大量のドイツ語専門文献を読み、現地で円滑な交渉・調査を進めるには語学力が大前提だから、ドイツ文学者の肩書は正当なはず。ゲーテ研究者はゲーテの如く、多くの学問領域にアンテナを張り巡らさなければならないが、彼が200年前に発した「文学と科学の密月は終わった」という嘆きまで踏襲したくない。「文学者が皮膚科学?」などと訝しがらず、まずはご一読を。
 

(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 石原 あえか / 2018)

本の目次

目次
 
はじめに  かつて存在したムラージュ工房の風景
 
第1章  元祖皮膚科コンビ、土肥慶蔵と伊藤有 東京大学医学部皮膚科学教室・本郷
  1  日本のムラージュ師の祖・伊藤有のムラージュ
  2  土肥、ウィーンでムラージュに出会う
  3  土肥と伊藤の同郷コンビ初仕事『日本皮膚病黴毒図譜』原画
  4  土肥の腕  再発見された胸像
 
第2章  私学のムラージュ  慶應義塾大学医学部皮膚科学教室・信濃町
  1  壁掛けスタイルのムラージュ壮観
  2  伊藤の最初の弟子・宇野一洋
  3  伊藤と宇野が育てた東大二代目ムラージュ師・長安周一
  4  土肥の名著『世界黴毒史』と秦佐八郎のサルヴァルサン効果
 
第3章  ムラージュ展示室と植物標本  北海道大学総合博物館・札幌
  1  日本では珍しいムラージュ常設展示室
  2  伊藤が後任指名を考えた弟子・南条議雄
  3  ムラージュが語る歴史 絶滅した「天然痘」を知る手段
  4  日本のムラージュの「父」・伊藤の前歴 植物学者・宮部金吾とのフィールドワーク
 
第4章  北陸伝播 金沢大学医学記念館
  1  土肥章司教授着任時の御仕度  伊藤の銘入りムラージュ
  2  金大のムラージュ師・斉藤要三郎  遊び心あふれる横綱の手形
  3  山越長七 (山越工作所) と眼病模型
 
第5章  PILZE (ピルツェ)  水虫またはキノコ  北海道大学植物園、東京大学医学図書館ほか
  1  キノコと皮膚科
  2  土肥の後継者・太田正雄と白癬菌研究
  3  大御所サブローと『ぞうさんババール』の意外な結び付き
  4  カプセルに入ったキノコ標本  エゾリスが暮らす植物園
 
第6章  南へ 九州での挑戦  九州大学医学部皮膚科学教室
  1  まずは九大ムラージュ師の師匠から  元寇画家・矢田一嘯
  2  初代教授・旭憲吉 西日本皮膚科の祖
  3  新島伊三郎のムラージュ
  4  二代教授・皆見省吾  土肥の『世界黴毒史』ドイツ語訳と先天性梅毒児
 
第7章  ムラージュの灯、消える 失われた日本の技術  名古屋大学博物館
  1  最後の直系ムラージュ師  孤高の人・長谷川兼太郎
  2  田村春吉と名古屋へ、そして太田正雄に請われて奉天へ
  3  戦後、名古屋での活躍
  4  常設棚と企画展「ムラージュ」
 
第8章  異端の蝋模型師 沼田仁吉  北里研究所・東京大学医科学研究所・目黒寄生虫館
  1  沼田の上司・宮島幹之助とツツガムシ病
  2  一九一一年開催のドレスデン国際衛生博覧会  ドイツでの沼田の足跡
  3  衛生啓蒙活動と感染症関連
  4  沼田の晩年  目黒寄生虫館の模型
  5  沼田の虫卵模型から  ミヤイリガイと「日本住血吸虫」
 
第9章  ムラージュの未来 ドレスデン・ドイツ衛生博物館
  1  ドイツ衛生博物館というユニークな存在
  2  黎明期のムラージュを理解し、奨励したドイツ詩人ゲーテ
  3  日独ムラージュ研究史の概観と比較
  4  DHMDのムラージュと修復技術者ラング氏
 
エピローグ  ドレスデンの空の下で
 
撮影後記  受苦のポートレート  大西成明
 
謝辞と補足
 
主要文献リスト
 

関連情報

書評:
鈴木晃仁氏 (慶應義塾大学 / 医学史)・評 東京大学大学院総合文化研究科 言語情報科学専攻紀要『言語・情報・テクスト』(2018年12月VOL.25, 79-85頁)

『読売新聞』朝刊「記者が選ぶ」(2018年4月8日)
 
著者インタビュー:
Culture Reviewみる よむ 学ぶ「見る者を虜にする蝋製模型標本」 (『メディカル・トリビューン』誌Vol.51, No.13 2018年6月18日)
 
「君はムラージュを見たか、見る者を虜にする蝋製模型標本」(『メディカル・トリビューン』Web版 2018年6月21日)
https://medical-tribune.co.jp/rensai/2018/0621514555/

刊行関連イベント:
写真展「沼田仁吉と目黒寄生虫館-数奇な運命を辿った蝋模型師」撮影: 大西成明 目黒寄生虫館1階特別展示スペース 2018年10月4日~2019年3月下旬 (予定)
(展示情報 目黒寄生虫館ホームページ)

皮膚科医ほか、専門研究者向け内容:
日本皮膚科学会西部支部発行専門誌『西日本皮膚科』(Web上は会員認証有: https://www.jstage.jst.go.jp/browse/nishinihonhifu/-char/ja) での綜説連載 (国内篇2015年8月Vol.77-4~2017年2月Vol.79-1計8回 / 番外篇・ドイツ語圏ムラージュの現在 2018年2月Vol.81-1~10月Vol.5計3回)

 

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