イスラム圏の思想文化からは、アラウィー派、ヤズィード教のように特定個人の神格化など独特な教義を持ちイスラム教の枠内に収まるかどうか判断しがたい宗教・宗派も生まれた。これらの宗教・宗派についてはキリスト教、古代グノーシス主義といったイスラム教以外の宗教や中東内の民間信仰の影響が強調されがちであった。そのような影響はゼロではないにしても、初期イスラム思想史において生まれた、コーランや預言者伝承に関する様々な解釈の中から、現代のイスラム教徒には「異端」「異教」にしか見えない宗教・宗派が派生したと理解することも可能である。7世紀初頭のイスラム教誕生以降多種多様な思想が生まれたが、10世紀以降になるとスンナ派および主流シーア派の間で正統教義が確立し、それらと対立する思想や集団は否定・排除されるようになった。この過程において「異端」「異教」として排除された宗派、そしてかつてあった「異端」的イスラム解釈が排除の中で結晶化した集団がアラウィー派、そして本書が主題とするドゥルーズ派だったのである。これらの宗派は市井のイスラム教徒が考えるイスラム教の枠組みを超えているかもしれないが、その思想文化の一部ではある。初期イスラム思想にあった多様性の一つの現れであったとも言えよう。
本書が目指したのは、11世紀初頭という創成期におけるドゥルーズ派の思想を、シーア派思想史を踏まえて把握することである。ドゥルーズ派とは、当時のイスラム圏の西半分を支配するファーティマ朝を樹立したシーア派の一派、イスマーイール派から、同王朝の君主でありイマーム (宗教上の指導者) でもあるハーキム (996-1021年在位) が神であると宣言し分派した宗派である。現在の彼らはレバノン、シリア、イスラエルなどに居住し、ハーキムの神格化だけでなく輪廻思想といった特徴的な教義を保持する。本書はドゥルーズ派の聖典『英知の書簡集』の中で創始者ハムザ・イブン・アリー (没年不詳) に帰される書間をとりあげ、善悪二元論に基づく世界観、救世主思想、輪廻思想、信仰偽装 (タキーヤ) 論といったトピックについて彼らの母体となるイスマーイール派の思想と比較しながら分析した。『英知の書簡集』は21世紀になってはじめて本格的な学術的校訂がおこなわれたが、ハムザ書簡群に見られる思想の全体像を再構成しようという試みはいまだになされていない。本書の分析の結果明らかとなったのは、ハムザの思想はイスマーイール派思想の延長上に形成されているが、個人の神格化や善悪二元論などについて旧来のイスマーイール派思想が越えようとしなかった一線を明らかに踏み越えたこと、輪廻思想などドゥルーズ派の特徴的教義の一部はハムザの書簡には見出されずハムザの死後に形成されたこと、の二点であろう。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 菊地 達也 / 2022)
本の目次
I 研究史
II 本書の目的
第1章 極端派 (グラート)
I 極端派のとらえづらさ
II 極端派の定義
III 極端派における神格化と輪廻の教説
IV ムファッダル文献とヌサイル派
V ヌサイル派世界創成論における神・人間・輪廻
第2章 イスマーイール派神話の復活
I 融通無碍のイスマーイール派神話
II 転落者神話
III キルマーニーの可能的知性
IV ハーミディーの霊的アダム神話
第3章 二元論的世界観
I ドゥルーズ派教宣組織と二元論
II ハーキム・カルト
III 天上における悪の出現
IV 地上における悪の顕現
第4章 メシアニズム
I ドゥルーズ派における終末と救世主
II 歴史的背景と資料
III ドゥルーズ派終末論の成立:1021年以前
IV ドゥルーズ派終末論の変容;試練の時代
V シーア派思想史におけるドゥルーズ派終末論
第5章 輪廻思想と信仰偽装 (タキーヤ) 論
I 輪廻思想と信仰偽装論の起源
II ハムザ書簡とヌサイル派論駁書
III 輪廻思想
IV タキーヤ論
参考文献/索引