ふくろうの本 / 世界の歴史 図説 イスラム教の歴史
本書は、イスラム思想史の多層性を描くことを意図した概説書である。そのため、科学、シーア派、スーフィズム (イスラム神秘主義) といった思想領域ごとに章を設定し、多様な潮流が相互に絡み合い、時に反発してきた歴史を記述している。「ふくろうの本: 世界の歴史」シリーズに収録された本は、歴史の流れという視点を重視し、通常は時系列的に章が進む。しかし、本書の構成は必ずしもそうなってはいない。一冊の本であらゆるイスラム思想とあらゆるイスラム地域について語り尽くすことは不可能だから、というのも理由の一つではあるが、思想領域ごとの通時的変遷という縦軸に思想領域間の相互関係という横軸を重ね合わせることで、イスラム思想史をより立体的に描き出そうとしたからでもある。
とはいえ、バラバラな思想領域が散漫に並べられているわけではない。最初期の歴史とコーラン、ムハンマド、イスラム神学というイスラム教の基本的要素が紹介される第1、2章は本書全体の基礎を提示している。そして、第3~5章というグループと第6、7章というグループとの間にはある種の緊張関係がある。読者が、この緊張関係が単なる対立だけでなくイスラム教の思想文化のダイナミズムにもなっているのだということを読み取ってくれれば、編著者としては望外の喜びである。
第3章は、ギリシア由来の異教の学問、技術がイスラム圏でいかに咀嚼され、アラビア科学やイスラム科学と呼ばれる体系がどのように構築されていったのかを明らかにする。第4章はシーア派というイスラム教内の少数派を主題にし、その独自の思想がどのように形成されたかを示した後、それがイランなど非アラビア語圏に広がっていくプロセスを示す。第5章はスーフィズムの基本や歴史を紹介しつつ、精神的境地を目指す求道者たちが築いた神秘思想と修行だけでなく、現世利益と結びついた民衆信仰としての発展にも目配りをしている。新進気鋭の若手研究者が担当する以上の章は、7世紀のアラビア半島での神の啓示によって始まったイスラム教が、時には独自の思索によって時には異文化からの影響を受け多様に変質し、地域や階級を超えて拡散していく様相を示す。
第3~5章の主題が、イスラム文化の「遠心力」的側面を担う領域だったのに対し、第6、7章の主題はその「求心力」となるものである。近現代のイスラム世界は近代化 / 西洋化の荒波に晒されるが、イスラム法学を主題にする第6章は、近現代に生きたイスラム法学者たちが時としてその波に抗い、時として現実との間に折り合いを付けたことを明らかにする。第7章は、サラフ (イスラム教の初期世代) の時代の原点に戻り、西洋化だけでなくシーア派やスーフィズムなどもその時代にはなかった「逸脱」として否定しようとするサラフ主義について詳述してくれる。
本書が示すように、読者には、「イスラム教とはXXである」といった単純化された言説に惑わされず、対立や矛盾をも内包し、それらを原動力として日々変転していく運動体としてイスラム教をとらえてもらいたいものである。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 菊地 達也 / 2018)
本の目次
第一章 イスラム教とコーラン (菊地達也)
第二章 初期イスラム史とスンナ派の成立 (菊地達也・大渕久志)
第三章 ギリシア文明との出会い (矢口直英)
第四章 シーア派とイラン (平野貴大)
第五章 スーフィズムと民間信仰 (相樂悠太)
第六章 イスラム法と西洋化の時代 (堀井聡江)
第七章 サラフ主義と「イスラム国」(西野正巳)
おわりに (菊地達也)
イスラム史略年表
主要参考文献