イスラーム 知の遺産
本書の目的は、イスラームの、あまり有名ではないが重要な古典的作品を紹介することである。それらの作品の分野は、ハディース (預言者ムハンマド等に関する伝承、第1、3章)、法学 (第4、6、7章)、学問論 (第2章)、辞典 (第5章)、現代思想 (第10章)、文学 (第5、8章)、教育論 (第9章) にわたる。成立した地域も、中央アジア (第2、5章)、イラン (第3、4、9章)、イラク (第1、3章)、シリア (第3章)、エジプト (第6、7章)、トルコ (第8章)、モロッコ (第10章)、アンダルス (第3、6章) と、やはり多岐にわたる (2つ以上の作品を取り上げている章もあるので一つの主題や地域が2つ以上の章に現れることもある)。成立年代は、10~15世紀、19~20世紀となっている。
第1章は、10世紀に編纂された12イマーム・シーア派のハディース集を取り上げ、その内容を紹介するとともに、同派のハディース観と同書の成立事情や、同書が12イマーム派に対して有した意義について考察する。第2章は、イスラームの知識人によって提示された学問の分類の試みの一端を紹介する。第3章は、10~13世紀にイスラーム世界の各地で編纂された人名録を主体とする地方史を取り上げ、その体裁や目的について考察する。第4章は、11世紀に著された法学書を資料として、スンナ派4法学派の一つシャーフィイー派の学説がどのように展開したのかを、幾つかのトピックに即して分析する。第5章は、中央アジアのチュルク系住民がイスラームを受容して間もなく著した2つのチュルク語文献を概観し、イスラーム化ということの内容についても考察する。第6章は、スンナ派の法学派間の学説の異同を主題とする法学の一ジャンルに焦点を当てて、その体裁や内容の発展を辿る。第7章は、オスマン帝国民法典「マジャッラ」と並んでシャリーアの成文化の初期の試みである、エジプト民法典草案ともいえる『ムルシド』を内容面から検討し、近代アラブ圏の立法史におけるその意義を論ずる。第8章は、オスマン帝国末期に書かれた、祖国への愛を謳った戯曲を取り上げ、オスマン帝国の滅亡からトルコ共和国の成立に至る政治的変動のなかでその意義を考察する。第9章は、20世紀のイランの女子教育運動家の生涯とその活動や思想を、同時代のイランの政治史の文脈のなかで描き出す。第10章は、20世紀モロッコを代表する宗教知識人でありながらスーフィズムへの理解をも示すスースィーの著作を紹介することを通して、サラフィー主義とスーフィズムという2大思潮の現代におけるあり方を考察する。
本書で紹介されている作品は、一般にはあまり知られていないが、イスラームの学問や文学の歴史において著された文献の分野をバランスよく網羅しており、一歩進んだイスラーム文化の入門書としては最適ではないかと思う。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 柳橋 博之 / 2016)
本の目次
第2章 ファーラービー『諸学通覧』 - 知識のネットワーク化とムスリム社会 (阿久津正幸)
第3章 地方史人名録 - ハディース学者の地方観と世界観 (森山央朗)
第4章 ジュワイニー『ニハーヤ』 - シャーフィイー派法学の展開 (柳橋博之)
第5章 ユースフ『クタドゥグ・ビリグ』とカーシュガリー『チュルク語諸方言修正』 - 11世紀チュルク諸語とイスラーム (菅原 睦)
第6章 「法学者間の学説相違の書」- イスラーム法の規範と柔軟性 (小野仁美)
第7章 ムハンマド・カドリー『ムルシド・アル=ハイラーン』- イスラーム法学の近代 (堀井聡江)
第8章 ナームク・ケマル『祖国あるいはスィリストレ』- 19世紀オスマン帝国の愛国的戯曲をめぐって (佐々木紳)
第9章 『セディーゲ・ドウラターバーディー作品集』- 女子教育推進に尽力した近代イランの女性知識人と社会の反応 (山﨑和美)
第10章 ムフタール・スースィー『治癒をもたらす妙薬』- モロッコ南部ベルベル人とイスラーム的知の伝統 (齋藤 剛)