本書は通例ではアナーキズム思想史の初期に位置づけられる、ウィリアム・ゴドウィン、マックス・シュティルナー、ピエール・ジョゼフ・プルードンという3人の思想家についての政治思想史的研究である。一般にアナーキズムと呼ばれる思想や運動は19世紀後半頃にマルクス主義と対抗しつつバクーニンらによって形成された。そして後でできた観念が先に挙げた3者にも遡って適用され、アナーキズムの先駆者という位置づけが与えられた。しかし、バクーニン以降とは異なり、この3者には自らをアナーキストと呼ぶことは稀であり、アナーキズム思想や運動を組織したことはない。本書はアナーキズム思想史の通念を疑い、後世のアナーキズムの先駆者というのとは異なる視点で、これら18世紀末から19世紀前半の思想家たちを再検討することを課題とするものである。
この3者はそれぞれ独立性の高い思想家であり、非国教会牧師 (ゴドウィン)、ヘーゲル左派 (シュティルナー)、職人的世界の労働運動 (プルードン) と、それぞれ出自は異なっていて、相互の交渉もわずかである。そして啓蒙思想や共和主義など18世紀やそれ以前の政治思想史的伝統とつながる面を多く有している。19世紀がナショナリズムや科学主義に染まる直前の、やや異端的な政治思想の一端をこれらの思想家は表現している。同時に平等理念を継承しながらも、結局は独裁に終わったフランス革命のとりわけジャコバン主義に対する批判を含んでいることもこれらの思想家の共通する特徴である。
現在の政治状況を考えるとき、国家や政治体制への信頼の低下は顕著であり、それを受けて一部ではアナーキズムへの関心の復活が言われている。しかし19世紀末から20世紀にかけての通常の意味でのアナーキズム思想に回帰することは、社会構造や意識の変化のゆえに現実的ではない。それに対して、本書で論じた3人の思想家は、後のアナーキズム思想によって忘却された面を多く有するが、逆にそれらに現代の課題にとって有意義であるような諸点を見出すことができるのではないかというのが私の見通しである。たとえば人間の意志には還元できない客観的な正義の観念、私的所有を批判しつつ共産主義を退ける立場、社会の根底にある相互性の重要性といった事柄である。
本書では以上のようないわゆる初期アナーキズム思想を政治思想史の文脈のなかに位置づけるとともに、通常のアナーキズムの通史では見えてこない面を掘り起こすことを試みた。アナーキズムは一般的に左派系で社会主義の一派としては把握されてきたが、現在では通常右派に位置づけられるリバタリアニズムや無政府資本主義もアナーキズム的性格を有すると解されるようになっているなど、概念の整理と組み換えが必要な時期にある。本書は地味な歴史研究であるが、そうした現代的要請にいくらかでも応じられればと考えている。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 森 政稔 / 2023)
本の目次
I アナーキズムの思想的意義
1章 アナーキズム的モーメント
II 先駆者たち
2章 W.ゴドウィン:合理性と判断力
3章 M.シュティルナー:自己性と差異
中間章 19世紀初期アナーキズム思想の可能性と現代的意義
III マルクス、プルードン、フランス社会主義
4章 マルクス:国家を超える市民社会
5章 プルードンI:ジャコバン主義批判
6章 プルードンII:産業化と自由、そして連帯
IV その後の展開
7章 ベンジャミン・タッカー:アメリカ的アナーキズムの系譜
終章
関連情報
馬路智仁 評 <本の棚>「なぜ、今アナーキズムが必要なのか 森政稔 著『アナーキズム――政治思想史的考察』(作品社、二〇二三年) による探求」 (『教養学部報』第648号 2023年10月2日)
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/648/open/648-2-02.html
苅部直 評「「無政府」思想 現代に通底」 (読売新聞オンライン 2023年5月26日)
https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20230523-OYT8T50004/
森元斎 評 (週間読書人 2023年5月5日)
https://jinnet.dokushojin.com/blogs/news/20230505
書籍紹介:
毎日新聞 2023年6月10日
https://mainichi.jp/articles/20230610/ddm/015/070/002000c
著者についての解説:
重田園江 [連載 シン・アナキズム]「ねこと森政稔」第1回 (本がひらく|NHK出版 2021年8月6日)
https://nhkbook-hiraku.com/n/n0736aa5762dd
重田園江 [連載 シン・アナキズム]「ねこと森政稔」第2回 (本がひらく|NHK出版 2021年8月30日)
https://nhkbook-hiraku.com/n/nc60b643cbdb9