本書は、東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻・バイオエンジニアリング専攻、医学系研究科において実施されている英語講義「Radiation Biology (放射線生物学)」講義にもとづき、主に工学部4年生、工学系研究科修士課程1年生に向けて、物理、化学から生物学と極めて広範な学問分野にわたり、また社会からの関心も高い「放射線生物学」を理解する一助となるよう作成したものです。
本書のきっかけは学生からの「『放射線でがんになる』と『放射線でがんが治る』はどのように考えればいいのか」という質問でした。原子力エネルギーの安全な利用は、人と環境を放射線の悪影響から守ることが前提になります。その一方で、放射線治療はがん治療の三本柱の一つになっていますし、放射線は医療診断にも広く使われています。どちらの側面においても放射線の意義とリスクを科学的に理解する不可欠の基盤となるのが、放射線が生物や人体に及ぼす影響や効果、作用を取り扱う分野である「放射線生物学」です。
本書の特徴は、放射線の影響を原子レベルから個体レベルまでの多層的な視点で捉え、放射線生物学の基礎から応用に至るまでを一貫して解説している点です。物理、機械、システム系の学生にも理解できるよう、明解な記述を心掛けました。1章の導入では、空間軸と時間軸の観点からみた事象の捉え方を、ミクロからマクロへとズームアウトして解説し、加えて放射線についての概略を述べています。2章では、物理・化学的な基礎過程として放射線と物質の相互作用を述べています。3章からは生化学、生物学的過程であるDNA、核、細胞への放射線の影響について、4章では組織、臓器、個体レベルでの影響について、図表を多用し、最近の研究の動向を伝えています。従来の教科書とは一線を画して、生物学、化学、分子生物学、医学的説明は省き、詳しい説明は巻末に付した参考文献を参照できるようにしています。
なお、本書は東京大学工学教程シリーズの原子力工学分野の1冊です。単なる教科書ではなく、東京大学の学生が学ぶべき知を示すとともに、東京大学の教員が学生に教授すべき知を示す教程です。東京大学工学部、および東京大学大学院工学系研究科において教育する工学はいかにあるべきか、工学の知の殿堂として世界に問う教程が「東京大学工学教程」です。
原子力というとまず思い浮かべるのは発電、エネルギーでしょう。しかし、原子力が対象とする学術はそれよりはるかに広い範囲に及びます。放射線と物質の相互作用を解明し、新しい放射線源を開発し、放射線を産業や医療に応用することも、原子力に含まれます。本書からは、総合科学技術としての原子力が秘める他分野への応用・展開の可能性も実感して頂けることでしょう。
(紹介文執筆者: 工学系研究科 教授 石川 顕一 / 2024)
本の目次
1 放射線生物学の基礎
1.1 放射線と原子と原子核
1.2 放射線生物作用の空間スケールと時間スケール
1.3 放射線源
1.4 放射線生物学・医療での放射線の役割
2 放射線生物学の物理・化学的基礎過程
2.1 放射線と物質の相互作用
2.2 水・生体高分子の放射線化学
2.3 直接作用と間接作用
2.4 LET 依存性と空間的構造
3 DNA・核・細胞の損傷と修復
3.1 細胞の構造と活動
3.2 DNA の損傷と修復
3.3 細胞に対する作用
3.4 細胞応答
3.5 細胞死
3.6 放射線感受性
3.7 突然変異
3.8 発がん
3.9 非標的影響
3.10 細胞レベルの放射線応答から個体レベルの放射線影響へ
4 個体レベルと臓器・組織レベルでの放射線影響
4.1 放射線による人体影響の分類
4.2 急性障害と胎児発生障害(確定的影響)
4.3 晩発障害と遺伝的障害(確率的影響)
4.4 臓器・組織の放射線感受性
4.5 放射線防護剤と放射線増感剤
4.6 低線量率・低線量被ばく影響
4.7 放射線ホルミシス
おわりに
参考文献
関連情報
書架見聞 本棚: 勝部孝則 ([国研] 量子科学技術研究開発機構 放射線医学研究所 放射線影響研究部) 評 (『Isotope News』No.787, p.45 2023年6月号)
https://www.jrias.or.jp/pdf/2306_HONDANA_KATSUBE.pdf
https://www.jrias.or.jp/books/cat3/2023/787.html
安井博宣 (北海道大学大学院獣医学研究院放射線学教室) 評 (一般社団法人日本放射線影響学会ホームページ 2023年1月26日)
https://www.jrrs.org/thesispage/detail/262