世界を見渡し、日本を見つめる「戦略的コミュケーション」の研究者。| UTOKYO VOICES 094
公共政策大学院 教授 青井千由紀
世界を見渡し、日本を見つめる「戦略的コミュケーション」の研究者。
1991年、東西冷戦の終焉とともに旧ユーゴスラビアで内戦が勃発。莫大な数の市民が犠牲となったことから、西側主要国は平和支援部隊の投入による介入に踏み切った。
ちょうどその頃、国際政治の研究者を志してアメリカ・コロンビア大学の大学院に通っていた青井は、一時休学してジュネーブの国連機関で働いていた。
「それ以前の軍事力はもっぱら自国の戦争のためのものでした。しかし旧ユーゴや同時期に同じく内戦で飢餓が起こったソマリアなどでは、人道目的で各国の軍隊が派遣された。冷戦後の世界で武力行使の目的や意味が変質していく局面を、私はたまたま間近で見ることになりました」
それが研究のフォーカスを定める契機となり、以来、青井は国際政治学・安全保障学の立場から武力行使の正当性について研究してきた。
「ただ、いま研究時間の9割以上を注いでいるテーマは『戦略的コミュニケーション』ですが」
武力という物理的な力の行使と、コミュニケーションという外交的な力の行使。両者はまるで対極の存在に思えるが、青井はどちらも、「国家が外部に及ぼす影響」の一形態だと見ている。
「安全保障戦略といえばまず軍事力に目がいきますが、いまはどの国も他国に対してそう簡単には武力行使ができない時代。その分、国の外交政策を有利に進める『コミュニケーション』の重要性が非常に大きくなってきています」
青井が特に注目しているのはイギリスの「戦略的な」コミュニケーションだ。
「戦略的コミュニケーションとは、国家の『戦略』、すなわち目標や優先事項を実現するために明確な意図をもって行う情報発信のこと。単なる広報活動とは異なります。自国の行動の意図を後追いで説明するだけのものでもありません。戦略的コミュニケーションとは、ときに政策を規定したり行動そのものにもなるほど、国家にとって重要な活動なのです」
たとえばイギリス国内でロシア人の元スパイが狙われ、一般市民が巻き添えとなって死亡した2018年のノビチョク事件。主権が侵される大事件だったが、イギリス政府は性急にロシアと対立することなく、法と手続きにしたがって行動した。まず、この事件で使われた化学物質がノビチョクであることを突き止め、国際社会と自国民にその事実を公開してロシアの関与を明らかにしたのだ。
「イギリスが最重要視しているのは『ルールに基づく秩序』。そこでイギリスは、違法行為を許さないというメッセージを世界に伝え、結果としてロシアを強く牽制した。この時、コミュニケーションは、戦略を効果的に実現するための『行動』だったのです」
戦略的コミュニケーションの多層的な面白さに惹かれて研究してきた青井だが、その一方でずっと気にかかっていることがある。
「日本の対外コミュニケーションはまだ、大局的な戦略のない発信や全方位的な広報にとどまっているように見えます。しかしそれでは、国際社会でリーダーシップを発揮するどころか日本に対する誤解や無知を覆すこともできず、結果的に国益の達成に不利になります」
だから、戦略的コミュニケーションの重要性とその効果を理解し、専門的な知識を備えた人材を育成したい、と語る言葉に熱がこもる。
安全保障におけるコミュニケーションの役割を理論的に解き明かしてきた研究者として、青井は、日本の将来のためにできることは何かを考え続けている。
「研究の性質上、さまざまな国の機関や研究機関の協力をいただきながら研究を進めています。反対に、国から委託されて行う研究もあります。これは、イギリス政府の平和支援ドクトリンを研究していた時にご協力いただいた機関の方からもらった記念品です」
「恩師に言われた言葉です。国際政治の研究では理論やドグマに縛られるよりも、 ‘make sense’すること(わかりやすく、理にかなっていること)のほうが重要であると考えます。国際政治の現実は科学の実験室ではなく、また、複雑ですから」
Profile
青井千由紀(あおい・ちゆき)
上智大学卒業後、マサチューセッツ工科大学で修士号、コロンビア大学で博士号を取得。国連大学平和とガバナンスプログラム学術研究官、青山学院大学教授を経て、2016年より現職。2008~2009年にロンドン大学キングス・カレッジ戦争学部客員研究員、2019年より客員教授も務める。政府・国際機関の委託研究や各国研究機関との共同研究も多く、2018年、防衛大綱策定のための「安全保障と防衛力に関する懇談会」メンバー。日英ともに論文および著作多数。
取材日: 2020年1月15日
取材・文/江口絵理、撮影/今村拓馬