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コロナ下の逆境をチャンスに N95マスクの静電気を回復させる研究

掲載日:2020年9月9日

低電位測定器を用いて、電圧を測る杉原先生。N95マスクに1094ボルトのマイナスの静電気が付いているのがわかる

生産技術研究所の杉原加織講師は今年3月中旬、東京大学に着任するため、スイスから日本に帰国しました。折しもヨーロッパでは、新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、日本でも感染が拡大しつつあった時期。1日でも出発が遅ければ、乗り継ぎ便が飛ばなくなり、日本にしばらくたどり着けなかったかもしれない、と振り返ります。

生産技術研究所の杉原加織講師

4月に生産技術研究所で生物物理工学研究室を立ち上げた杉原先生は、以前の勤務先であるジュネーブ大学の研究室から送った高度な実験機器が、COVID-19による貨物輸送の混乱のため予定通り到着せず、歯がゆい思いをしました。

しかし、この停滞期間が、自分の研究を見つめ直し、今後の方向性を考える時間を与えてくれた、と杉原先生は話します。専門知識を生かして、世界中の医療従事者にとって深刻な供給不足となっているN95マスクを再利用できないか、という新たな研究を始めるきっかけにもなりました。

「私の研究にとって大きなピンチでした。どうしようかと思いましたが、高価な機器はなくても、自分一人で、手を動かして、できることはないか、考えました。それで始まったのが今回の小さなプロジェクトです」

N95マスクは、会話やくしゃみで飛び散るウイルスを含んだエアロゾルなど、空気中のさまざまな粒子を電荷を与えたフィルターで捕集することで感染を防ぎます。N95の95という数字は、マスクが空気中の粒子の95パーセント以上は捕集できるという意味です。(一般に流通しているサージカルマスクは、N95マスクと違い肌とマスクの隙間から空気が漏れてしまうためウイルスを遮断する効果は薄いそうです。)このフィルターは、単に粒子を物理的にブロックするだけではなく、フィルターの間をくぐり抜けられる大きさの粒子でも、静電気によって吸着させることができます。ただ、静電気が時間とともに失われ、特に湿気を帯びると弱くなることはあまり知られていません。 ましてや水で洗濯したり除菌のためのアルコールを噴霧したりすると、場合によっては静電気はほぼ無くなりフィルター効果が劇的に落ちてしまいます。

N95マスクの供給不足は、世界中の医療現場で深刻な問題になっている  dontree/stock.adobe.com

テレビのニュース報道で、病院でN95マスクを洗濯して再利用しているケースもあると知った先生は、危機感を感じたと言います。洗濯などで除菌した後、マスクに直接電圧をかけることで静電気を復活させることはできないだろうかと考え、研究を始めました。

杉原先生は今、一度使用され除菌されたN95マスクを2枚の金属板で挟んで電圧をかけられるような、鯛焼き器に似た小さな機械を試作しています。また、天気や湿度によってマスク内で静電気のつき方がどう変わるかについても研究しています。

杉原先生にとっては常に、探求心が原動力となってきました。名古屋生まれ関東育ちの先生は、慶應義塾大学で物理を専攻したあと、生産技術研究所の修士課程に入り、半導体物理を学びます。しかし、修士課程の途中から、人の病気を治したり、人々を健康にすることに自分の研究を役立てたい、という思いが強くなったと話します。そのため、物理の知識を生かしつつ生物医学系の研究ができる生物物理工学に研究分野を変更しました。

また留学にも興味がありました。コネやツテはありませんでしたが、バイオセンサ・バイオエレクトロニクスの研究室を主宰するヨーロッパの研究機関の教授を「ググり」、メールで連絡。面接を経て、博士課程への入学を許可されたチューリッヒ工科大学に進学しました。

チューリッヒ工科大学では、細胞の内外でのイオンの行き来を制御するタンパク質、イオンチャネルに関する研究を担当しました。

細胞膜内に存在するイオンチャネルのイラスト(茶色の部分)。口のように開閉しながら、イオンの細胞への出入りを制御している  scienceDISPLAY/stock.adobe.com

「細胞膜にあるイオンチャネルは、細胞の口のようなもの。開くとイオンが入り、閉じるとイオンをブロックして、人間の電子回路をコントロールしています」

イオンチャネルの働きは脳において特に重要です。意識があるか、眠っているか、また目で物が見えるか、などはすべてイオンチャネルが閉じたり開いたりすることでコントロールされています。科学者たちは、細胞膜の両側に電極を刺して、電圧をかけて電流を測ります。電流が計測されると、イオンチャネルの口が開いてイオンが流れたとわかるからです。

このような装置を用い、製薬企業では、睡眠障害やうつ病といった神経系の疾患に対する新薬を見つけるために、何百万種類の化学物質をイオンチャネルに付加することでチャネルが開くか閉じるかを調べるテストを行なっています。ところが、使用されている自動パッチクランプと呼ばれる装置の効率が悪く、なかなかスクリーニングが進みません。そこで、スイスの製薬企業と共同で、その装置の効率を上げる研究に取り組みました。

博士号取得後も、物理学と工学と生物学が交差する分野での研究を続けました。ドイツ・シュトゥットガルトにあるマックス・プランク知的システム研究所でポスドク研究員として2年間を過ごしたあと、2014年、ジュネーブ大学でテニュア・トラック助教に着任。今春、日本に戻るまで同大学で勤務しました。

現在の研究分野の一つは、「メカノバイオロジー」。張力や浸透圧など、物理的な力が細胞、組織、そして臓器にどのように影響を与えるのかを研究する学問です。杉原先生は特に、科学者がナノスケールでそのような力を測定することができる技術に関心を持っていて、メカノクロミック材料と呼ばれる、押すと蛍光を発光するポリマーを細胞膜に組み込むことで、細胞膜とタンパク質がどのようにお互いを押したり引っ張ったりしているかを可視化する技術の開発を目指しています。

押すと色が変わったり蛍光を発したりするメカノクロミック・ポリマーと呼ばれる素材にペプチド(=アミノ酸の分子)を付加した光学顕微鏡画像。ペプチドがポリマーの一部を引っ張って力がかかり、青から赤に色が変化しているのがわかる (Macromolecules 2020 53 (15), 6469-6475. DOI: 10.1021/acs.macromol.0c00718 に掲載)

「例えば、がん細胞は健康な細胞に比べて硬いことがわかっています。今までは、がん細胞しか持っていないタンパク質を見つけることでがん細胞かどうかを識別していました。しかし今では、原子間力顕微鏡という特殊な顕微鏡を使って、ナノスケールで細胞を押して、細胞の硬さからがん細胞を見分けようとする研究者が出てきています」

杉原先生は自らを「ツール・デベロッパー」と呼び、生物医学系研究者らが使えるツールを開発したいと考えています。

「私の仕事は、生物学者とか製薬会社とか医師とか、エンドユーザーとのかかわりを大切にしながら、物理や工学の力で彼らのニーズを満たすアプリケーションを生み出すことだと思っています。彼らが本当に必要だと思うものを作りたい。それが究極の目標ですね」

ただ今は、マスクの研究に汗を流し、コロナ下でできることは何かを考えています。

「生物系の実験は、準備するのに1年かかる。なので、実験をやっている研究者にとって、コロナによって研究計画を狂わされることがどれだけ大変なことか、よくわかります。実験が一からやり直しになりますから。私自身は今、何もないところからチャンスを作り出そうとしています。そして、今までやってきたことをそのまま続けるというよりは、自分の研究を見つめ直して、新しいやり方でどう伸ばしていくかを考えています」

取材・文/ 小竹 朝子

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