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平安古典の犬と猫——「心なき」もの、「心ある」もの|永井久美子 犬にまつわる東大の研究(8)

掲載日:2023年12月5日

犬にまつわる東大の研究

犬にまつわる東大の研究

獣医外科学、動物行動学、ロボット工学、
考古学、年代測定学、法学・動物介在学、
獣医疫学、古典文学、現代文学。

9分野の先生に、犬にまつわる研究について紹介してもらいました。

犬と日本古典文学

平安古典の犬と猫——「心なき」もの、「心ある」もの

文/永井久美子
NAGAI Kumiko

総合文化研究科准教授

永井久美子

現代では愛玩のために飼われることが多い犬と猫ですが、1000年ほど前の時代にはどのように扱われていたのでしょうか。
『源氏物語』をはじめとする平安時代の古典を研究する永井先生が、当時の作品に登場する犬猫たちの姿を紹介します。

犬の名を持つ「心なき」童と「心ある」犬

すずめの子を犬君いぬきが逃がしつる、伏籠ふせごうちめたりつるものを」。光源氏がのちに妻となる紫の上に出会う場面、『源氏物語』若紫わかむらさき巻の有名な一節です。「犬君いぬき」は人の名で、同じ名前の女童めのわらわ紅葉賀もみじのが巻にも登場し、そこでは人形の御殿を壊してしまっています。

長じて「理想的な女性」となる紫の上ですが、物語序盤ではまだ十歳ほどで、周囲から成熟を望まれています。犬君は紫の上とともに無邪気に遊びつつも、先行研究も指摘するように、雀を逃がし、玩具を壊すハプニングを通して、幼い遊びを結果的に止めさせてもいます。

犬君は物語中で「例の、心なしの」「いと心なき人」と評され、「思慮分別がない」とされています。大人の情緒や知性の枠からはみ出す奔放な子供でありつつ、その奔放さで紫の上の成長を促し、大人たちの願望を叶える「忠犬」ともなっているのが、犬の名を冠した童なのです。

『枕草子』第七段には、「心ある」犬が登場します。一条天皇がかわいがっていた猫「命婦みょうぶのおとど」を襲った犬「翁まろ」は、宮中を追われてしまいます。翁まろは後日また姿を見せますが、追放された身と解してか、最初は寄りつきません。それでもついに人々の呼ぶ声に感じ入り、ひれ伏して鳴いたといいます。人間と同様の分別と感情を持つ様子の翁まろのことを、主上は「あさましう(訳「驚いたことに」)、犬なども、かかる心あるものなりけり」と言って笑い、許すに至ります。

この話には、帝が寵愛した猫に皇后定子を、その猫の脅威となった犬に、花山かざん法皇に弓をひき大宰府へ送られた定子の兄、藤原伊周ふじわらのこれちかを重ねる解釈があります。伊周はのちに帰京はしますが、一族は没落の一途をたどります。翁まろが「心ある」者として許され宮廷に復帰した物語は、清少納言が動物に託して夢見た、主人である定子の幸福な姿と解することができそうです。

大和和紀『あさきゆめみし』完全版第2巻 講談社、2017年(初出1981年)p.70

大和和紀『あさきゆめみし』完全版第2巻
講談社、2017年(初出1981年)
p.70より、紅葉賀巻の犬君

犬君は、この漫画では「犬」の字が書かれた衣をまとっています。傍らには、原文には書かれていない猫が。紫の上の遊び場のにぎやかさが、猫を描くことで表されています。犬の室内飼いは、平安時代にはまだほとんどありませんでした。

犬といえば番犬・野犬だった平安時代

『源氏物語』に本物の犬が登場するのは、わずかに浮舟うきふね巻のみです。源氏の孫である匂宮におうのみやは、ライバルであるかおるの思い人、浮舟を宇治にひそかに訪ねる途上、夜道で犬に吠えかかられます。ちなみに犬の鳴き声は、『大鏡』に「ひよ」と記されています(実際の音は濁音で「びよ」)。都の貴族にとって、犬は外にいる番犬か野犬でした。首に紐をつけた愛玩動物として目立つようになるのは、安土桃山期に洋犬が日本にもたらされた後です。

猫が『源氏物語』に登場するのは、若菜上わかなじょう巻です。新たに源氏の妻となった女三の宮は、唐猫が簾を引き上げたことで、夫以外に姿を見られてしまいます。女三の宮と舶来の猫という画題は、「南蛮犬」ブームののちには、当世風の女性と犬に読み替えられて繰り返し絵に描かれました。

ペット化する以前、犬はより強く野性味を見せていました。平安末期の絵巻「病草紙やまいのそうし」には人糞に近づく犬が、鎌倉時代の絵巻「九相図巻くそうずかん別ウィンドウで開く」には人の死肉をあさる血にまみれた犬が描かれています。人間の論理が通じない荒ぶる存在、しかし手懐ければ強力な味方となる存在として、「心なし」でありながらも「心ある」様子を見せることもあるものとして、人々は犬と付き合ってきたのです。

「九相図巻」より第六 噉相 九州国立博物館蔵
「九相図巻」より第六 噉相たんそう 九州国立博物館蔵
仏書『摩訶止観まかしかん』などに基づき、遺骸が朽ち果てるまでを九段階に分けて描く絵で、これは屍を犬が喰らい鳥がついばむ凄惨な場面。美貌の女性の姿が変わり果てるさまを示す九相図は、不浄や無常を説く絵画として何例も作られました。
縄暖簾図屏風(部分) 所蔵:公益財団法人アルカンシエール美術財団(原美術館ARC)重要文化財
縄暖簾図屏風(部分)
所蔵:公益財団法人アルカンシエール美術財団(原美術館ARC別ウィンドウで開く)重要文化財
簾の奥から姿を現した女三の宮に見立てて縄暖簾をくぐる遊女が描かれており、傍らの動物は唐猫から洋犬に置き換えられています。犬の声を「わん」と記すのは主に近世以降で、愛玩犬も増える中、人が耳にする鳴き声そのものが変化した影響もあると見られています。

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