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大江健三郎のデビュー作「奇妙な仕事」と犬|村上克尚 犬にまつわる東大の研究(9)

掲載日:2023年12月12日

犬にまつわる東大の研究

犬にまつわる東大の研究

獣医外科学、動物行動学、ロボット工学、
考古学、年代測定学、法学・動物介在学、
獣医疫学、古典文学、現代文学。

9分野の先生に、犬にまつわる研究について紹介してもらいました。

犬と現代日本文学

大江健三郎のデビュー作「奇妙な仕事」と犬

文/村上克尚
MURAKAMI Katsunao

総合文化研究科准教授

村上克尚

2023年3月に亡くなった大江健三郎。商業上のデビュー作である「死者の奢り」の前に、実質上のデビュー作を発表していました。
「死者の奢り」やその後の作品にも通底する部分の多いこの作品について、戦後文学の動物表象について研究してきた村上先生が解説します。

大学病院の犬150匹を撲殺するアルバイト

1956年の冬、「東大の医学部の病院前の広い舗道」を「家庭教師とか、少し無理な勉強とかで毎日疲れきっていた」一人の学生が肩をすぼめて歩いている。「北からの風が吹きつける日にはきまって、かずしれない犬のほえ声が」聞こえてくる。「実験用の犬たち」の姿を想像し、学生は物思いにふける。年が改まり、「春になって時間の余裕と健康とをとり戻し」た学生は、「短い小説を書くプラン」を立てる。それは、三人の学生が、専門の犬殺しの男のもと、大学病院で飼われている150匹の犬を撲殺するアルバイトをするという奇妙な物語だった。

言うまでもなく、これは後年のノーベル賞作家・大江健三郎と、そのデビュー作「奇妙な仕事」についての話だ。「奇妙な仕事」は、1957年に五月祭賞を受賞し、『東京大学新聞』に掲載された。本作が批評家の平野謙の目に留まり、大江は学生作家として文壇に華々しい登場を飾る。

それにしても、なぜ犬だったのか。主人公は、犬たちを見て、「僕らだってそういうことになるかもしれないぞ。すっかり敵意をなくして無気力につながれている、互いに似かよって、個性をなくした、あいまいな僕ら、僕ら日本の学生」と考える。ここから、本作の犬たちは「占領下の日本の全人民のシンボル」や、「停滞にひんしている時代の青春の否定性」の象徴として解釈されてきた。しかし、その解釈で留まると、犬に自分の写し身を見たはずの学生たちが、なぜ犬を撲殺しようとするのか、という次の段階を理解できないままになる。

「死者の奢り」の自筆原稿(大江健三郎文庫所蔵)
文芸誌『文學界』(1957年8月号)に掲載された「死者の奢り」の自筆原稿(大江健三郎文庫所蔵)。最終稿では「死者たちは」で始まる冒頭部に、この原稿では「彼らは」という表現が使われています。
『東京大学新聞』紙面(1957年5月22日付)
「奇妙な仕事」が掲載された『東京大学新聞』紙面(1957年5月22日付)。受賞の言葉と若き日の顔写真も見ることができます。

他者を「動物」と蔑んで己を惨めに肯定

当時の大江が、ナチスの強制収容所の記録を熱心に読んでいたこと、また本作の「イメージと軸になる論理」を明かした文章で「ファシズム」という言葉が用いられていること。この二点から、拙著『動物の声、他者の声』では、本作を、「動物」とみなした自分の似姿を否認し、「人間」が「人間」であることを周囲に証明するための暴力を振るうさまを描いた作品として論じた。自分自身の閉塞感と正面から対峙することなく、弱い他者を「動物」と蔑み、暴力を振るうことで、自分の優位性を惨めに肯定しようとする者たち——。思えば、2016年の相模原障害者施設殺傷事件の犯人もまた、当時の衆議院議長に宛てて、障害者は「動物」と同じだと書き送り、社会での自分の有用性を証明するかのように犯行を予告したのだった。反対に、1957年の大江の小説は、犬たちの眼によって見つめられ、徐々に「人間」としての優位性を脅かされていく若者たちを描くことで出発したことを、ここで強調しておきたい。

2021年には、大江家より1万8000枚に及ぶ原稿と著者校が東大に寄託され、「大江健三郎文庫」が開設されることが発表された。残念ながら「奇妙な仕事」の原稿はそこに含まれていないが、近い将来、文庫を訪れる人たちは、いずれの原稿を繰っても、そこに過去のみではなく、自分たちの現在と未来とが描かれていることを実感して頂けるのではないかと思う。

『動物の声、他者の声』(新曜社/2017年)

『動物の声、他者の声』(新曜社/2017年)

動物の表象を手がかりに日本の戦後文学の倫理を論じた一冊。

●村上先生による詳しい解説動画はこちら(2021年度開講・高校生と大学生のための金曜特別講座)
大江健三郎のデビュー作「奇妙な仕事」を読む(東大TV)別ウィンドウで開く

大江健三郎文庫がオープン!

2021年1月21日、大江健三郎氏代理のご家族と寄託契約書が取り交わされ、人文社会系研究科・文学部が自筆原稿をはじめとする資料を受け入れました。『同時代ゲーム』(1979年)、『燃えあがる緑の木』(1993年)など、大江氏の自筆原稿がまとまった形で公的機関に寄託されるのは初めて。2023年9月1日には「大江健三郎文庫」が弥生キャンパスにオープンしました。1万8千枚超のデジタルアーカイブ、3500点超の資料の閲覧の場を研究者に提供し、HPやセミナーを通して研究成果を発信します。

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