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草色に囲まれた白い表紙に古代都城の写真

書籍名

中国古代都城の設計と思想 円丘祭祀の歴史的展開

著者名

佐川 英治

判型など

320ページ、B5判、上製

言語

日本語

発行年月日

2016年2月26日

ISBN コード

978-4-585-22143-2

出版社

勉誠出版

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中国古代都城の設計と思想

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本書は東アジア都城の模範となった唐の長安城のプランがどのようにして生まれたのかを歴史的に考察したものである。唐の長安城のプランは日本の平城京や平安京あるいは渤海の上京にも採用されたために、中国の典型的な都城プランと思われることが多い。しかし、実はそのプランは儒教の経典に書かれたプランとは異なるし、前漢の都城である長安城や後漢の都城である洛陽城のプランとも異なるものである。ではそれはいつどのようにして生まれたのか。このことは平城京が唐の長安城を模したものであることが認識されるようになった前世紀の初めから日本や中国の研究者などによって繰り返し問われてきたことであった。
 
ただし、従来の研究ではこの問題を都城の外形的特徴や建築物の性格から考察してきたために、見る側すなわち研究者の主観が入りやすく、何に注目するかによってどの時期に画期を置くかが異なってきた。そこで本書では、最新の発掘成果を利用して都城の復元をおこなうとともに、文献学的な立場から各時代の都城をめぐる議論を整理し、各時代の都城の設計にあたって当時の人々が何を起点として設計をおこなったのかに注目し、漢代から唐代にかけて設計の起点が宗廟から南郊、そして円丘へと移っていったことを明らかにした。これらはいずれも皇帝が祖先を祭ったり天を祭ったりするための儀礼の施設であり、宗廟、南郊、円丘へという変遷は、皇帝祭祀の重点がしだいに祖先の祭祀から天の祭祀へと移っていったことを示すものである。
 
天を祭る円丘が国家の最も重要な祭祀の場となり、都城の設計の起点ともなったのは征服王朝であった北魏の時代である。北魏は西暦494年にモンゴル高原に近い平城 (現在の大同) から洛陽に遷都し、洛陽城を築いた。この時、皇帝の宮殿である太極殿とそれに正対する円丘との間に大道が築かれ、この大道に対して左右対称に碁盤の目状の都市を築く設計が生まれた。ここに唐の長安城の朱雀大街、日本の朱雀大路に相当する都市設計の中軸線が生まれたのであるが、これには遊牧文化と漢族文化の統合を図った北魏独特の天の祭祀が大きな影響を及ぼしているのである。
 
日本は8世紀初めに築かれた平城京でこのプランを採用するが、それより以前の7世紀後半に築かれた日本最初の都城である藤原京にはこれとは全く異なるプランが採用されており、むしろ中国の伝統的な都城のプランに近いものであった。日本 (倭) はすでに7世紀初めから遣隋使・遣唐使を派遣し、隋唐の文化に接していたが、7世紀の東アジアは隋唐による東方侵略が繰り返し試みられた動乱の時代であった。しかし、7世紀の終わり頃から西の吐蕃や北の突厥・ウイグルの勃興もあって東アジアには唐朝の下での平和が訪れる。平城京遷都には北魏以来の遊牧文化の影響を受け継ぐ隋唐の文化を典型的な中国文化として受け入れる日本の方針転換があった。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 佐川 英治 / 2016)

本の目次

序論 中国古代都城史研究序説
第一章 宗廟と禁苑 - 中国古代都城の神聖空間 -
第二章 漢代の郊祀と都城の空間
第三章 「奢靡」と「狂直」- 洛陽建設をめぐる魏の明帝と高堂隆 -
第四章 曹魏太極殿の所在について
第五章 北魏平城の鹿苑の機能とその変遷
第六章 北魏洛陽城の形成と空間配置 - 外郭と中軸線を中心に -
第七章 中国都城史上における六朝建康城の位置づけについて
第八章 西郊から円丘へ -『文館詞林』後魏孝文帝祭円丘大赦詔に見る孝文帝の祭天儀礼
終章 古代東アジアの都城の理念 - 北魏洛陽城から日本平城京へ -

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