大清帝国の形成と八旗制
清朝、というと、どのようなイメージを持つだろうか。──康煕から乾隆に至る「中華帝国の繁栄」。アヘン戦争に始まる「落日の中華帝国」。あるいは「殷周秦漢…」と呪文のように覚えた、「中国最後の王朝」かもしれない。
だがそれらは、いずれも「中国」の王朝──漢文を綴り、儒教を尊崇する文人官僚国家──としてのイメージにすぎない。しかし、この王朝を建設したのは漢人ではなく、かつて「女真」と呼ばれ、自ら「満洲」と名のった人びとであった。満洲とは「マンジュ manju」という民族名・王朝名に当て字した漢字表記 (したがって、本来地名ではない) で、彼らマンジュ人は、漢字・漢語ではなくツングース系のマンジュ語を話し、それをモンゴル文字を改良したマンジュ文字で書き綴った。
私は、このマンジュ文字・マンジュ語で書かれた記録を主な史料として、17世紀にマンジュ人がどのような国家を建設し、いかに大帝国に発展させていったかを研究している。その国家の名が、マンジュ語でダイチン、漢字で大清 (「大」なる「清」ではない) という国号である。それゆえ拙著では、中国歴代の〇朝としてではなく、モンゴル帝国やオスマン帝国などと同じ土俵で考えようとする意図をも込めて、「大清」を号した「帝国」として「大清帝国」と表現した。
その帝国形成・運営の中核となったのが、建国者ヌルハチが創設した「八旗」と呼ばれる軍事組織である。八旗は、マンジュ人を中心とした軍事集団であるとともに彼らが所属する社会集団・身分集団でもあり、清一代を通して支配階層とその領民を構成した。この組織は、整然とした制度体系をとりつつ、内実は主従・通婚関係を生かしながら編制・運営するという二重構造となっており、軍事組織としての機能性と属人的な求心力とを両立させたものであった。
一方で、これはマンジュ人の独創というわけではなく、モンゴル帝国に代表される、中央ユーラシアの軍事 = 政治体制の系譜上に位置するものであり、その中で最も求心的・集約的な形態と評価することができる。そのような点から、私は、「中華王朝の清朝」ではなく「中央ユーラシアの大清帝国」と呼ぶべき姿こそが、この国家の原初の実像であったと主張した。
「中国最後の王朝・清朝」ではなく、「モンゴル帝国を引き継いだ、中央ユーラシアの大清帝国」──そのように視座を転換することは、この王朝自体の評価に見直しを迫るだけでなく、近世・近代の世界史の見方を変えることにもつながるであろう。ひるがえって、近代以降の中国の広大な領域の直接の淵源が、このマンジュ人政権が八旗を主力として築いたものであったことに思いを致すとき、現代中国が版図のみを強引に引き継いだところに、かの国が抱える諸問題の根源があることも浮かび上がってくる。歴史を見つめることそれ自体の面白さと、それがもつ射程の長大さとを、この一つの試みを通して感じてもらえるならば幸いである。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 准教授 杉山 清彦 / 2016)
本の目次
第I部 清初八旗の形成と構造
第一章 八旗制下のマンジュ氏族
第二章 八旗旗王制の構造
第三章 清初侍衛考──マンジュ=大清グルンの親衛・側近集団──
第四章 ホンタイジ政権論覚書──マンジュのハンから大清国皇帝へ──
第五章 中央ユーラシア国家としての大清帝国
第II部 「近世」世界のなかの大清帝国
第六章 大清帝国の形成とユーラシア東方
第七章 「華夷雑居」と「マンジュ化」の諸相
第八章 大清帝国形成の歴史的位置
補論 近世ユーラシアのなかの大清帝国──オスマン、サファヴィー、ムガル、そして "アイシン=ギョロ朝"──