東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

ルネサンス芸術家の肖像画

書籍名

天才と凡才の時代 ルネサンス芸術奇譚

著者名

秋山 聰

判型など

272ページ、B6判、並製

言語

日本語

発行年月日

2018年1月15日

ISBN コード

978-4-87586-534-6

出版社

芸術新聞社

出版社URL

書籍紹介ページ

学内図書館貸出状況(OPAC)

天才と凡才の時代

英語版ページ指定

英語ページを見る

「事実」は、存外はっきりとしないものです。科学技術が発達した現代、「事実」はある程度特定できるようになったかもしれません。しかし実際には、新聞や週刊誌あるいはネットが伝える「事実」をめぐる情報にはさまざまな相違が認められ、どれを「事実」とみなすべきか判然としないことは珍しくありません。マス・コミュニケーションが発達していなかった近代以前の時代になると、一層「事実」が奈辺にあるかの判断が難しかったであろうことは想像に難くないでしょう。歴史学は、長らく「逸話」や「伝説」の類をそぎ落とすことで「事実」に迫ろうとしてきました。しかし、「事実」を特定することが現代でおいてすら容易でないことを考えると、過去の「事実」の特定はより一層困難な営為だと思われます。そうであるならば、「事実」の特定をさしあたりあきらめ、「逸話」や「伝説」をじっくりと検討することにより、その当時の人々がある「事実」に対して抱いていた印象やイメージを浮かび上がらせることに取り組んでみるのも悪くはないでしょう。
 
近代以前の美術作品やその制作者については、人々は具体的な作品からよりも、その人物をめぐる「逸話」によって知ることが専らでした。複製技術が十分発達しておらず、造形的な情報の伝達が限られていた時代、天才的な画家や彫刻家の作品を実見することができる人は随分と限られていました。それにもかかわらず、ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチと言った芸術家たちが名声を博すことが出来たのはなぜなのでしょうか?それは古代ギリシア・ローマの昔から、天才をめぐる様々な逸話やこぼれ話が広く流布されたからでした。
 
画家が描いた葡萄の実を鳥が実物と勘違いして摘みに飛来したとか、名人によって描かれたカーテンを別の名人が本物と見間違い開けようとしたとか、宮廷画家が描き上げたばかりの王の肖像画を窓辺で乾かしていたところ、戸外から王子がその肖像画を父王本人だと思い込み「やあお父さん、こんにちは」と挨拶した等と、到底信じられないような逸話は数多く伝えられています。こうした賞賛を定型的なトポスだと切り捨ててしまうのは簡単ですが、時代ごとに集めて分析してみると、それぞれの時代の天才的芸術家に抱く印象ないしイメージというものが浮かび上がってきます。「事実」からだけでは把握しがたい、それぞれの時代の天才を人々がどのように捉えていたのかは、むしろこうした一見すると荒唐無稽とも思われる「逸話」や「伝説」からうかがい知ることができるようです。古代の哲学者についてではありますが、ニーチェによる「ある人の人物像を形成するには、逸話が三つあれば可能である」という言明は普遍的なものと言えるでしょう。
 
「伝説」や「逸話」の類の歴史的史料としての有効性を明らかにした貴重な先行研究には、エルンスト・クリスとオットー・クルツの共著になる『芸術家伝説』(ドイツ語原著1934年、英語増補版1979年、邦訳1989年、ぺりかん社)があります。この書物は、それまで虚構の産物として切り捨てられてきた画家や彫刻家についてのありえないような古今東西の逸話を幅広く収集し、類稀な才能を有するが故に「英雄」であると共に「魔術師」ともみなされる「天才的芸術家像」の源が古代にまで遡るものであることを明らかにしました。さらに、非現実的な「伝説」が、芸術家たち自身が抱く「芸術家像」に影響を与え、しばしば「伝説の再現」とも言える現象が生じたことも指摘しています。通常考えられているように「事実」が「伝説」に先行するとはかぎらず、時に「事実」が「伝説」によって触発されることもありうるというのです。本書は、この先行研究に刺激を受け、いわゆる「芸術」という概念が萌し始めたルネサンス時代を中心に、天才的美術家をめぐる「逸話」と無名の画家たちをめぐる「事実」を取り混ぜて80例紹介してみました。もし本書に新奇な点があるとしたならば、それは天才ならざる美術家たちの「伝説」よりも奇なる出来事を、天才をめぐる「伝説」と並置してみせたことでしょうか。天才をめぐる書物は多々ありますが、凡才に光を当てた論考は珍しいかもしれません。そこで書名に「凡才」を入れることに少し拘ってみました。天才の高みが生み出されるためには、凡才による広い裾野が必要です。天才を歴史的に正しく認識するためには、忘却の淵に沈んだ数多の凡才の事績を知ることも不可欠ではないでしょうか。本書はそういう思いから生まれたささやかな試みの一つなのです。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 秋山 聰 / 2019)

本の目次

[第I部] ルネサンスの光の中に
レオナルド・ダ・ヴィンチ 制作の遅れは芸術家の証?
ピエロ・デッラ・フランチェスカ 絵の中の注文主
ペルジーノ 注文主の希望に翻弄された画家
ジョット 敬虔な宗教画家の知られざる素顔
ラファエロ 機知に富む恋多き天才
マンテーニャ 古代彫刻に理想を見た北イタリアの巨匠
ボッティチェッリ 失われた古代名画の再現
フィリッポ・リッピ 恋におぼれた破天荒な聖職者画家
ミケランジェロ 聖母に刻む若き天才の自負
ティツィアーノ 年齢を偽ったイタリア・ルネサンスの老巨匠
ドメニコ・ベッカフーミ ジョット伝説を引き継いだ画家
ジョルジョーネ 彫刻に対する絵画の優越を説いた画家
パオロ・ウッチェッロ 遠近法を極めたルネサンスの偉才
アンドレア・デル・サルト 妻への愛で成功を棒にふった情深き画匠
ジェンティーレ・ベッリーニ スルタンに仕えたヴェネツィアのエリート画家
フランチェスコ・スクァルチオーネ 「教育」という才能を発揮したマンテーニャの師
ロッソ・フィオレンティーノ 人のつながりがもたらした幸運
ジョヴァンニ・ベッリーニ デューラーの筆を所望したイタリアの巨匠
フランチェスコ・デル・コッサ 報酬に異議申し立てをした画家の矜持
パオロ・ヴェロネーゼ 創作の自由を主張した気骨の画家
コスメ・トゥーラ 研修の旅に出た宮廷画家の目的
ドメニコ・ギルランダイオ 老人の遺影を描いた肖像画の巨匠
フラ・バルトロメオ 独自の人物表現を求めた修道士画家
フラ・アンジェリコ 一点の自画像に表された才能のひらめき
ブオナミーコ・ブッファルマッコ 悪ふざけが過ぎ巨匠になりそこねた画家
セバスティアーノ・デル・ピオンボ 成功と同時に絵を手放した画人
マルカントニオ・ライモンディ 卓越した複製制作者の権利
ジョヴァンニ・ジロラモ・サヴォルド 観る者を巻き込む名品
ビッチ・ディ・ロレンツォ・ディ・ビッチ 打ちすえられた聖人像
ウーゴ・ダ・カルピ 木版画家の唯一の油彩画
パオロ・ヴェネツィアーノ 軽んじられたヴェネツィア・ルネサンス絵画の先駆作
パチーノ・ダ・ボナグイダ キリストの身体から延びるチューブ
ジョヴァンニ・フランチェスコ・カロート 子どもの落書きを描いた最古の肖像画

[第II部] アルプスを越えて
アルブレヒト・デューラー ドイツから来た若き名手の速筆
ルーカス・クラーナハ 制作をシステム化したドイツの匠
ハンス・ホルバイン(子) イギリス国王を魅了した北方ルネサンスの写実画家
マティアス・グリューネヴァルト 名声に背を向け忘れられた謎のドイツ画家
ヤン・ファン・エイク 宮廷で成功を収めた画家の自画像
ハンス・バルドゥンク・グリーン 祭壇画で成功を収めたデューラーの愛弟子
シュテファン・ロッホナ ケルン市庁舎礼拝堂祭壇画を描いたシュテファン
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン 聖人に自らを重ね合わせた画家
ミヒャエル・ヴォルゲムート デューラーの師となった大工房の主
フーホー・ファン・デル・フース 画業と信仰のはざまで精神を患った天才
ヤン・ホッサールト 君主の寵愛を受けた奇矯の宮廷画家
メルキオール・ブルーデルラム 宮中御用達の地位を得た画家
アルブレヒト・デューラー(父) 天才を育てた愛深き職人
ヨハン・ケーニヒ ミニアチュール画家の矜持
ヨハンネス・グンプ 一点の自画像に表われた才能のひらめき
ルーカス・フルテナーゲル マルティン・ルターの死顔を描いた画家
アルブレヒト・アルトドルファー 不可能な鳥瞰の歴史絵巻を描いた巨匠
ハンス・ショイフェライン 手抜き画家の渾身作
ハンス・デューラー 才気溢れる喧嘩屋の画家
ゲオルク・ペンツ デューラーの悲運の後継者
ロベール・カンパン コネで市外追放を免れたネーデルラントの匠
ウルス・グラーフ 軍人として鳴らした画家の諧謔精神
ベルナルト・ファン・オルレイ タペストリーの原画を本分とした画家
ヘラールト・ホーレンバウト 個性を抑えた宮廷画家の技量
ヘールトヘン・トート・シント・ヤンス 描かれた「洗礼者ヨハネの遺体発見」
ハンス・メムリンク 工芸から絵画の時代への幕開け

[第III部] 芸術家の矜持を胸に
ソフォニスバ・アングィッソラ 古代画家の再来を演じた女性肖像画家
ヤーコポ・デ・バルバリ 技量より学識を
ロレンツォ・ギベルディ コンペティションに勝利した気配りの彫刻家
聖エリギウス 聖人になった中世の金細工師
工匠としての神Deus Artifex 神の創造を冗談にした庶民の想像力
聖ヴェロニカの画家 ゲーテが嘆賞した作者名不詳の画家
ティントレッタ 巨匠を父に持った女性画家
アンブロシウス・ベンソン 手本素描帖をめぐって師匠と争った画家
アルベルティ 万能の天才が示した諧謔精神
ジュアン・ジルメール 営業活動で逮捕された平凡な写本画家
ランブール兄弟 公爵に寵愛された画家兄弟
ジャン・ポワイエ 仕事の速さゆえに詩人に愛でられた画家
ルーカス・ファン・ライデン 異教の教祖を描いた名匠
ハンス・グルデンムント デューラーの版画を勝手に模刻した印刷業者
ハンス・プライデンヴルフ 忘れられた初期ネーデルラント絵画の伝道者
ティルマン・リーメンシュナイダー 祭壇から追われたマグダラのマリア像
ミヒール・コクシー オリジナルと並び称された複製画
イェルク・ショーンガウアー デューラーに銅版画を手ほどきした金細工師
ヴォルフガンク・カッツハイマー 凡庸なれど街を愛し、街からも愛された画家
ゲアラクス ステンドグラスに刻まれた名前
アグネス・デューラー 天才を支え続けた悪妻 (?)
 

このページを読んだ人は、こんなページも見ています