本書は「精神障害」(mental disorder) を「哲学」すること、つまり、精神障害という概念の意味を問い直すことを目的として書かれたものである。精神障害という概念は、20世紀後半以降は精神医学における医学的な概念として扱われてきたが、その内実は必ずしも明確なものではない。本書は、精神医学および関連する思想の歴史的な展開を跡付けるとともに、精神医学という実践を哲学的な視点から問い直すことを試みたものである。
本書は三部構成になっている。第一部「狂気と精神医学の哲学」は、狂気と哲学の関係と精神医学の特異性を論じる。第一章「狂気と理性」では、「共通感覚」の概念を軸に、古代のストア学派、キケロからカントにいたるまで、哲学者たちが狂気に対してどのような態度をとってきたのかがまとめられている。第二章「近代の疾病概念と精神医学の成立」では、シデナムの疾病概念やクレペリンの「疾患過程」の概念を検討しながら、精神医学の成立の過程と精神医学の特異性を明らかにすることが試みられる。第三章「生物学的アプローチと精神病理学」では脳機能局在論や向精神薬の登場に関する歴史的な意味について述べられるとともに、ヤスパースの精神病理学と現象学的精神病理学が批判的に検討されていく。
第二部「精神障害の概念と分類」は、精神障害の分類問題を扱う。精神医学は、精神障害をどのように分類するのかという問題に、成立当初からずっと悩まされてきた。第二次世界大戦後は、アメリカ精神医学会が作成するDSM (精神障害の分類・統計マニュアル) とWHOが作成するICD (国際疾病分類) が精神障害の分類に大きな影響を与えてきたが、近年では、DSMに代わる分類体系を作ることを目指すプロジェクト (RDoC) なども進められている。第二部では、精神障害を分類する試みの現代史を扱うとともに、精神障害と「自然種」の関係をめぐる哲学的議論や、精神障害を「有害な機能不全」として捉えようとするウェイクフィールドの議論を検討する。また、同性愛をめぐる論争が精神障害の概念に与えた影響についても言及している。
第三部「地域精神医療と当事者」では、「生物・心理・社会モデル」を再考するとともに、ピアサポート・セルフヘルプ、Consumer/survivor運動、リカバリー思想など、当事者の側からの運動の展開や20世紀後半以降の地域精神医療、精神医学における「対話的アプローチ」について考察が加えられる。本書で「対話的アプローチ」として名指されてるのは、イタリアのトリエステモデルとフィンランドのオープンダイアローグ・アプローチであり、診断を重視せず、当事者の主体性を重視する対話的アプローチが精神医学に対してもつ意義について検討されている。また、北海道浦河町で始まった「当事者研究」についても論じられ、そのインパクトや現象学との関係について論じられる。
本書の副題である「分類から対話へ」は、精神医学の今後の方向性を展望するものとなっている。精神医学はその成立以来、客観的な診断分類を手に入れようと努力してきたが、いまだ成功していない。分類を行うことが優先されるべきではなく、当事者との対話プロセスにおいて、診断分類がどのような意味を持つのかが問われるべきであろう。精神医学と精神科医療はより対話と当事者の主体性を重視したものへと変化すべきなのではないか。本書の副題には、著者のそうした期待も込められている。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 石原 孝二 / 2020)
本の目次
第1章 狂気と理性
1 古代のギリシアとローマにおける狂気と哲学
2 共通感覚の概念
3 狂気と理性の他者
4 ロックと共通感覚
5 カントによる「あたまの病気」の分類の試み
6 感覚の錯覚と理性の欺瞞
7 他者の視点の取得と共通感覚
8 狂気と理性的主体
第2章 近代の疾病概念と精神医学の成立――精神医学はなぜ常に「遅れている」のか
1 シデナムの疾病概念
2 存在論的な疾病概念の否定と器官‐機能主義
3 局在論者と器官‐機能主義
4 病原体理論の確立と存在論的疾病概念
5 一八世紀後半以降における狂気の分類体系の整備
6 「精神医学」という語の登場
7 専門分化と病院――精神医学の専門化は遅れたのだろうか
8 クレペリンの疾病概念
第3章 生物学的アプローチと精神病理学
1 脳機能局在論
2 脳機能局在論への反応
3 ヤスパースと現象学的精神病理学――精神障害をもつ人の経験を理解するとはどういうことなのか
4 現象学的精神病理学の展開と限界
5 薬物療法と精神病理学
第II部 精神障害の概念と分類
第4章 認知症、統合失調症、自閉症の系譜学――統合失調症と自閉症はなぜ重要な精神障害となったのか
1 知的障害と認知症
2 統合失調症の概念形成
3 統合失調症とスティグマ
4 自閉症の系譜学
第5章 DSMとICD――精神障害を分類する試みの現代史
1 ICD‐6における「精神および行動の障害」の章の登場
2 DSM‐IとDSM‐II
3 DSM‐IIIと記述的アプローチ
4 潜在的に生物学主義的な医学モデルと新クレペリン主義
5 スピッツァーによる非生物学主義的な医学モデルと精神障害の定義
6 DSM‐5とディメンジョナル・アプローチ
7 DSM/ICD体系の終焉 (?) とRDoCプロジェクト
第6章 精神障害の哲学――「自然種」と「有害な機能不全」モデル
1 精神障害は自然種か
2 自然種とボイドのHPC種
3 クーパーの自然種概念
4 ウェイクフィールドの「有害な機能不全」モデル
5 個人化モデルとしての機能不全モデル
第7章 同性愛と精神障害の概念
1 精神障害の定義の諸条件
2 同性愛をめぐって
第III部 地域精神医療と当事者
第8章 地域精神医療と対話的アプローチ
1 生物・心理・社会モデル再考
2 精神病院の位置づけの変化
3 脱施設化と地域精神保健への移行
4 イタリア・トリエステモデル
5 オープンダイアローグ
6 オープンダイアローグとニード適合型アプローチ
7 オープンダイアローグを支える制度と研究
第9章 当事者による活動
1 Alleged Lunatics’ Friend Society
2 ピアサポート/セルフヘルプグループ
3 Consumer/survivor運動――解放とケア
4 リカバリーの思想
第10章 当事者研究のインパクト
1 「当事者」の概念
2 当事者研究の誕生
3 当事者研究のコンテクスト
4 当事者研究と現象学
5 反精神医学と当事者研究
6 当事者研究の展開
7 当事者研究の意義
終章 精神障害と精神医学の行方
関連情報
東京大学駒場図書館 選書ジュニアスタッフ 評 (booklog: 駒場図書館ジュニア・スタッフおすすめ電子ブック 2022年3月17日)
https://booklog.jp/users/komalib/archives/1/4130101374
榊原英輔 評 書評論文「分類と対話」 (『科学哲学』53巻1号p.89-102 2020年9月30日)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/53/1/53_89/_pdf/-char/ja
森岡正芳 評 (『臨床心理学』第19巻3号 2019年5月10日)
https://www.kongoshuppan.co.jp/book/b515224.html
梶谷真司 評 <本の棚> (『教養学部報』第606号 2019年1月8日)
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/606/open/606-02-3.html
大谷保和 評 (『心と社会』176号 2019)
http://www.jamh.gr.jp/kokoro/mokuji_176.html
書籍紹介:
『週間読書人』 (2018年12月21日)
『図書新聞』 (2018年12月22日)
『べてるもんど』16 (2019年)
『精神看護』22:5 (2019年9月)
『ホップステップだうん!』ウェブマガジンVol.161 (2018年12月3日)
https://note.com/bethelnoie/m/mb4bff1d34632/archive/2018-12
イベント:
合評会 石原孝二「精神障害を哲学する:分類から対話へ」(東京大学出版会) (東京大学駒場キャンパス 2019年1月12日)
https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2019/01/post_185/