近年、韓国社会が抱えている最大の問題として真っ先にあげられるのが、「両極化」(polarization=二極化) といわれる格差問題である。2倍にも達する大企業と中小企業の間および正規雇用と非正規雇用の間の賃金格差、そしてその中小企業や非正規雇用で、低賃金の不安定な就労状況のもとで働く数多くの人々の生活困窮や剥奪感など、所得格差の問題がとくに注目されている。しかしそれだけではない。その所得格差に随伴する教育格差、学力格差、住居格差、健康格差、希望格差、そしてそれを背景にした世代間格差やジェンダー格差等々、人々の生活のあらゆる場面で深刻な格差問題が広がっている。本書は、このような「課題先進国」ともいえる韓国社会の現状の背景には何があるのか、そしてその現状に対していかなる制度・政策が展開されているのかについて、比較福祉国家研究の視点から検討を行ったものである。
比較福祉国家研究でみると、韓国は、日本やヨーロッパ諸国など先進諸国に比べて遅れて福祉国家化に乗り出した「後発福祉国家」とされる。一般的にいって、後発国は先進諸国からのさまざまなインパクトを受けながら自らの姿を変容させていく。そこには、いうまでもなく、キャッチアップ志向も含まれる。しかし後発福祉国家としての韓国の実態をみると、上記のような格差問題を含むさまざまな社会問題に対応するための制度・政策の展開において、先進諸国へのキャッチアップがうまくいかず、むしろそこから離れて新しい挑戦を試みようとする動きが鮮明に現れている。それはなぜか、その新しい挑戦とは何か、そしてその新しい挑戦のもつ意味は何か。本書では、先進諸国における福祉国家の経験と異なる、後発福祉国家としての韓国固有の制度・政策的文脈を明らかにしつつ、そのもとで試みられている新しい挑戦とその特徴、そしてそれのもつ普遍的な意味を検討したものである。
比較福祉国家研究において、韓国を含むアジアの国・地域は、先進諸国に比べて福祉国家化が遅れており、そのため制度・政策の整備および推進状況が不十分であることから、往々として「未発展」あるいは「未熟」といった消極的な評価が多い。それに対して本書は、韓国を事例に、そこにおける先進諸国と異なる制度・政策展開を、「脱キャッチアップ的挑戦」と積極的に捉えつつ、その内容と特徴および意味を明らかにしているところに、従来の研究と区別される重要な意義を見出すことができる。
後発福祉国家でありつつ課題先進国である韓国の「脱キャッチアップ的挑戦」は、他のアジア諸国・地域はもちろん、日本やヨーロッパ諸国など先進諸国の制度・政策の展開にも大きなヒントを与えるに違いない。本書が、韓国の実態を知るとともに、日本を含む各国・地域への示唆を考える機会になることを期待したい。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 金 成垣 / 2023)
本の目次
序章 キャッチアップか、新しい挑戦か
1 韓国福祉国家のいま
2 韓国福祉国家はいかに捉えられているか
3 本書の問い、視点、課題
第1章 「福祉国家化なき時代」の条件――20世紀の韓国
1 問題の提起
2 輸出指向型工業化による高度経済成長
(1) 不可欠な条件としての「安価な労働力」
(2)「権威主義的開発国家」の所産?
3 「技術・技能節約的発展」の成功とその帰結
(1) 重化学工業化のなかの「安価な労働力」の確保
(2) 民主化以降における「安価な労働力」の維持
4 20世紀の韓国は「例外的ケース」か
(1)「福祉国家化なき時代」の条件
(2) 21世紀の韓国へ
第2章 アジア通貨危機における福祉国家化――20世紀から21世紀へ
1 問題の提起
2 アジア通貨危機の状況
(1) 大量失業・貧困問題の発生
(2)「最善の福祉は経済成長、最善のセーフティネットは家族」の時代の終焉
3 韓国の福祉国家化
(1) 応急措置としての「総合失業対策」
(2)「社会保障長期発展計画」による社会保障制度の体系的整備
4 福祉国家化とそれ以降
(1)「福祉後進国」からの脱却
(2) 福祉国家化以降を捉える
第3章 足踏みする社会保障制度と新しい挑戦──「準普遍主義」と「補完型給付」の可能性
1 問題の提起
2 足踏みする社会保障制度
(1) 20年間つづく「福祉国家の初期段階」
(2) 日本の経験、韓国の経験
3 「フォーディズムなき福祉国家」としての韓国
(1) フォーディズムと福祉国家
(2) 社会保障制度の「フォーディズム的拡大」の困難
(3) 新しい挑戦としての「準普遍主義」と「補完型給付」
4 新しい挑戦の普遍的意味
(1) 後発福祉国家としての韓国
(2) 韓国の経験、アジアの経験
第4章 韓国型完全雇用政策の展開――社会的企業への期待
1 問題の提起
2 中長期計画にもとづく雇用保障政策の登場
(1) 脱工業化時代の雇用保障政策
(2)「雇用創出総合対策」の内容と特徴
3 「社会的企業」から「社会的経済企業」へ
(1)「社会的雇用」事業から「社会的企業育成法」の制定まで
(2) 社会的企業の展開
(3)「社会的経済」への期待
4 韓国型完全雇用政策の特徴と展望
(1) 先進国の完全雇用政策、韓国の完全雇用政策
(2) 後発福祉国家にみる「21世紀型完全雇用政策」
第5章 社会的投資戦略の韓国的文脈――所得保障とサービス保障のせめぎ合い
1 問題の提起
2 福祉国家から社会的投資戦略へ
(1) 社会的投資戦略が登場するまで
(2) 政権交代と社会的投資戦略の持続
3 ヨーロッパの社会的投資戦略、韓国の社会的投資戦略
(1) 社会的リスクのあらわれ方
(2) 社会的投資戦略をめぐる論争
(3)「5大所得保障政策」の展開
4 韓国にみる社会的投資戦略の限界と課題
(1) 後発福祉国家と社会的投資戦略
(2)「雇用」と「家族」を前提としない所得保障制度へ
第6章 広がるベーシックインカム導入論――「破壊的イノベーション」は起きるか
1 問題の提起
2 ベーシックインカム導入論の広がり
(1) 社会保障制度の行き詰まり
(2) コロナ禍で活性化したベーシックインカム導入論
3 社会保障の機能強化vs.ベーシックインカムの導入
(1) リペア戦略か、チェンジ戦略か
(2)「コスト優位」からみて
(3)「導入ハードル」からみて
4 ベーシックインカムの可能性と展望
(1) 後発福祉国家の「破壊的イノベーション」
(2) 資本主義とベーシックインカム
終章 キャッチアップを超えて
1 韓国福祉国家の「脱キャッチアップ」的挑戦
2「福祉国家的でないもの」の広がり
3 韓国から「世界」をみる
参考文献
初出一覧
あとがき
索引
関連情報
井上睦 評 (『アジア経済』64巻3号 pp. 79-83 2023年)
https://doi.org/10.24765/ajiakeizai.64.3_79
西下彰俊 評 (『社会福祉学』64巻1号 99. 103-105 2023年)
https://doi.org/10.24469/jssw.64.1_103
大西裕 評 (『大原社会問題研究所雑誌』776号 pp. 71-74 2023年6月号)
https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/776_07.pdf
鎮目真人 評 (『福祉社会学研究』No. 20 2023年5月)
https://www.jws-assoc.jp/jws.html
書籍紹介:
『貧困研究』30号 2023年6月
https://hinkonken.smoosy.atlas.jp/ja/journal3
研究会:
グローバル化と公共性研究会 比較福祉国家研究の最前線 [2] 金成垣『韓国福祉国家の挑戦』(明石書店、2022年) 出版記念オンライン研究会 (立命館大学人文科学研究科 2022年12月19日)
https://www.ritsumei.ac.jp/research/ihhss/events/article.html/?id=106