中国ジェンダー史研究入門
「ジェンダー史」という分野は、歴史学の世界において近年とみに市民権を拡大してきたように思われる。分かりやすい例としては、ミネルヴァ書房が2020年以来刊行している「論点・○○史学」シリーズに、日本史・東洋史・西洋史と並んで『論点・ジェンダー史学』が独立した1冊として含まれていることにも表れていよう。中国史に限っていうならば、戦前以来世界でも高い水準を誇ってきた日本の中国史研究においては、小野和子著『中国女性史:太平天国から現代まで』(平凡社、1978年) に代表されるように、女性史の分野でもまた早くから豊かな成果があげられてきた (同書は韓国語版・中国語版・英語版も出ている)。一方、ときに女性史と混同されやすい―――しかし社会のなかで生きるすべての人間が当事者という点において明確に異なる―――ジェンダー史という分野の確立は比較的遅かったといえる。
そこに体系的かつ通史的な成果をもたらしたのが、本書の筆頭編者でもある小浜正子氏を代表とする共同研究グループであり、本書はその一連の研究活動のなかに位置を占める。小浜氏は本書「はじめに」において、「歴史研究におけるジェンダー主流化」とは、「歴史のあらゆる側面を階級・階層や民族・エスニシティなどと同様に強く規定しているジェンダーへの関心を忘れずに研究をおこなうこと」と定義する。すなわち、ジェンダー主流化とはむろんジェンダー以外の歴史の諸相を切り捨てることではなく、従来の歴史学において伝統的に重視されてきた諸分野と同じく、ジェンダーも当然のように考察されるべき領域であること、それこそが「歴史研究と現在を生きる私たちの視線をゆたかにする」ということである。
このような理念を土台として組み立てられた本書の特色は、第一に、殷周から現代に至るまで中国史上のほぼすべての時代の専門家が集い、各テーマの研究動向とともに最新の知見を提示していることであるといえよう。帯のコピーにあるとおり、本書は「初学者から隣接分野[を学ぶ人々]まで必携の研究入門」([ ]内は引用者注) たることを目指して編まれたものであるため、当該分野を専門とする研究者以外の読者に対し、各テーマにおける問題関心の所在を、つまり「なぜこれが問題なのか」ということをわかりやすく伝える工夫がなされている。
なお、本書が2018年に刊行されたのち、繁体字中国語版と英語版が相次いで世に出された。殊に前者 (『被埋没的足跡:中国性別史研究入門』国立台湾大学出版中心、2020年) は、中国語圏における中国ジェンダー史研究の先駆者のひとりである台湾の李貞徳氏から「代導論」をご寄稿いただいたように、質量ともに進展著しい中国語圏の研究状況においてもなお、本書の成果は一定の資するところがあると位置づけていただけたことになる。いずれの言語であっても、本書がより多くの方々に、ひとつの指標として役立てていただけることを願ってやまない。
(紹介文執筆者: 附属図書館 助教 板橋 暁子 / 2023)
本の目次
はじめに――中国史におけるジェンダー秩序 小浜正子
1. ジェンダー史とジェンダー主流化
2. 中国女性史から中国ジェンダー史へ
3. 中国ジェンダー史共同研究と中国ジェンダー史のいくつかの論点
4. 残された課題
5. 本書の構成
第一編 通時的パースペクティブ
I期 先秦~隋唐 古典中国――父系社会の形成
はじめに 下倉 渉
第1章 考古学からみた先秦時代のジェンダー構造 内田純子
はじめに
1. 墓葬資料の扱い
2. 副葬工具にみられる性差―新石器時代の男耕女織の起源
3. 初期王朝時代(商代)の文字資料と女性
4. 考古学からみた商王とその妻―王陵区大墓と婦好墓の比較
5. 殷墟の族墓地の男女墓の分析
6. 西周から春秋・戦国期にかけての変化
7. 青銅器と装身具にみられる女性の役割
――西周から春秋・戦国期にかけての変化
8. 女性の寿命、生涯と身分
9. 男耕女織と絹生産
10.先秦時代のジェンダー構造の変化過程
第2章 父系化する社会 下倉 渉
はじめに
1. 異父の兄弟姉妹と舅甥の関係
2.「公主」の歴史
(1) 六朝から明清まで
(2) 漢代の公主について
おわりに
第3章 中国の文学と女性 佐竹保子
はじめに
1. 先秦(紀元前)
2. 漢代
3. 魏晋南北朝
4. 唐代
5. 宋代の李清照
おわりに
第4章 唐代の家族 翁育、三田辰彦訳
はじめに
1. 門閥貴族研究と唐代の家族・親族
2. 女性史研究と唐代の家族・親族
3. 礼制・法制研究と唐代の家族・親族
おわりに
コラム1 史料紹介――敦煌文書にみる妻の離婚、娘の財産相続 荒川正晴
コラム2 則天武后とその後 金子修一
II期 宋~明清 伝統中国――ジェンダー規範の強化
はじめに 佐々木愛
第5章 唐宋時代の生業とジェンダー 大澤正昭
はじめに
1. 唐宋時代の史料――限界と可能性
2. 女性が従事する生業
(1) 生業、家業一般について
(2) 女性の農業労働
(3) 農家経営と女性、商業
おわりに
第6章 伝統家族イデオロギーと朱子学 佐々木愛
はじめに
1. 滋賀秀三『中国家族法の原理』
2.「伝統家族イデオロギー」と朱子学
(1) 滋賀「原理」と朱子学
(2) 女性抑圧と朱子学
(3)「宗法」と朱子学
おわりに
第7章 婚姻と「貞節」の構造と変容 五味知子
はじめに
1. 貞操観念と表彰の変遷
2. 逸脱に対する処罰――性犯罪に関する規定の変遷
3. 女性の持参財産
おわりに
第8章 身分感覚とジェンダー 岸本美緒
はじめに――「身分感覚」というコンセプト
1. 伝統中国の「身分」とは何か
2.「士・庶」とジェンダー
(1) 女子教育と上昇戦略
(2) 上流階層の女性たち
(3) 文化としての纏足
(4) 節婦の表彰
3.「良・賤」とジェンダー
(1) 士人と妓女
(2) 売春と社会規範
おわりに――比較史的視点
コラム3 宮廷女官とジェンダー 小川快之
III期 近現代中国――変容するジェンダー秩序
はじめに 高嶋 航
第9章 民族主義とジェンダー 坂元ひろ子
はじめに――近代のナショナリズム
1. 中国近代「民族主義」研究
2.「国民の身体」とジェンダー――纏足/放足
3. 五四新文化運動期から抗日戦争期まで
第10章 近代中国の男性性 高嶋 航
1. はじめに――男性性とは?
2. 男性史とは?
3. ナショナリズム、帝国主義、植民地主義
4. 伝統的男性性――文の覇権
5. 日清戦争の衝撃―武の台頭
6. 共和国の誕生と五四運動――文武の相克と失墜
7. 中国国民党と中国共産党――武の時代
おわりに
第11章 近代中国の家族および愛・性をめぐる議論 江上幸子
はじめに
1. 新旧家族制度に関する論議
(1)「伝統的家族制度」への批判
(2)「近代的家族制度」の提唱
(3)「小家庭」制に伴う愛・性についての論議
2.「近代家族」イデオロギーへの女性の異議
(1) 清末の日本留学生
(2) 独身主義の主張
(3) 女性作家の作品から
(4)「家庭派」女性への拒否
3. 婚姻制度廃止論の提起
(1) 辛亥革命期のアナキスト
(2) 1920年代の婚姻制度廃止論
第12章 近現代の女性労働 リンダ・グローブ、田中アユ子訳
はじめに
1. 変化の第一段階――外で働き始めた女性たち
2. 初の女性専門職
3. 第一世代の女工たち
4. 工場以外の場所で働く女性労働者たち――娯楽産業を中心に
5. 毛沢東時代における女性の労働
6. 改革開放期における女性労働と今後の課題
第13章 中華人民共和国の成立とジェンダー秩序の変容 小浜正子
はじめに
1. 近代中国のジェンダーと家族をめぐる法と政策
2. 中華人民共和国のジェンダー構造変革と婚姻法貫徹運動
3. 社会変革とジェンダー構造の変容
4. 文化大革命とジェンダー
5. 計画出産をめぐる国家・家族・個人
(1)「一人っ子政策」以前
(2)「一人っ子政策」の展開
おわりに
第14章 改革開放期のジェンダー秩序の再編
――婦女連合会のネットワークに着目して 大橋史恵
はじめに
1. 中華全国婦女連合会とその変化
(1) 婦女連の沿革
(2) 改革開放初期の女性運動史研究
(3) オーラル・ヒストリーにおける婦女連をめぐる語り
2. 婦女連の組織体制とガバナンス
(1) 婦女連の組織体制
(2) ジェンダー公正をめぐる婦女連のイニシアティブ
(3) 市場経済化のなかの婦女連とローカルなジェンダー秩序
3. 今日のジェンダー秩序と女性運動の変化
(1) 女性運動の多様化
(2) ガバナンスの強化と柔軟なネットワーク
おわりに
コラム4 二冊の近代中国女性史 須藤瑞代
第二編 中国ジェンダー史上の諸問題
第15章 中国古代の戸籍と家族 鷲尾祐子
はじめに
1. 資源としてのヒト
2.「戸」と戸籍
3. 戸籍と内外の別
おわりに
第16章 「才女」をめぐる視線 板橋暁子
はじめに
1. 漢代まで
2. 魏晋南北朝
3. 隋唐
4. 宋元
5. 明清
おわりに
第17章 中国医学における医療・身体とジェンダー 姚 毅
はじめに
1. 中国の伝統医学における身体観とジェンダー
(1) 中国の伝統医学の特徴
(2)「女科」の成立と男女の性差
(3) 明清における身体観の変容と身体知識の構築
2. 身体を「科学化」する近代医学とジェンダー
(1) 西洋産婦人科知識の伝入
(2) 解剖学的凝視と生殖の「病理化」
(3) 女子体育と少女の身体
3. 男性医師の出産現場への介入と挫折
(1) 専門職としての産婦人科の形成と男性医者の嘆き
(2) 女性のための女性による治療―女性医師の戦略
(3) 中華人民共和国時期の「はだしの医者」
おわりに
第18章 中国におけるフェミニズムと女性/ジェンダー研究の展開 秋山洋子
1. 中国女性学の誕生
2. 80年代中国女性学の特色――〈女性意識〉と〈本土化〉
3. 東西フェミニズムの出会いから第四回国連世界女性会議へ
4. 北京+10――婦女連中心の女性学ネットワーク構築
5. 国際的援助による開発プロジェクトと女性/ジェンダー研究専門分野建設の動き
6. IT時代のフェミニズム
――「微笑する女性主義」と街頭抗議パフォーマンス
コラム5 セクシュアル・マイノリティ 遠山日出也
コラム6 演劇とジェンダー 中山 文
あとがき 小浜正子・江上幸子
中国ジェンダー史略年表
中国ジェンダー史関連重要文献一覧
索引 (人名・事項・書名)
関連情報
池原未希子 評 (『明大アジア史論集』24号 pp. 80-83 2020年3月)
迫田博子 評「誰がためにジェンダー秩序はあるのか」 (『お茶の水女子大学中国文学会報』38巻 pp. 57-61 2019年4月)
https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/42612
酒井惠子 評 (『東洋史研究』77巻4号 pp. 753-766 2019年3月)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/269195
駒込武 評 (『女性とジェンダーの歴史』6巻 pp. 109-113 2019年3月)
小二田章 評 (『歴史学研究』No. 986 p. 63 2019年8月号)
横山政子 評 (『日本ジェンダー研究』22号 pp. 99-101 2019年)
https://jp-gender.jp/wp/?page_id=1075
大濱慶子 評 (『図書新聞』3363号 2018年8月11日)
https://toshoshimbun.com/product__detail?item=1703316325036x548696156674685500
『ふぇみん』3188号 2018年5月
石井香江 評(『週刊読書人』3236号 p3 2018年4月)
『朝日新聞』 2018年3月18日
書籍紹介:
中国ジェンダー史研究入門、はじめに・・・【新人読書日記/毎日20頁を】(44) (京都大学学術出版会|note 2023年12月1日)
https://note.com/kyoto_up/n/ne574ba25fac2