紀元前5世紀にインドで活躍したとされる釈迦によって創始された仏教が、アジアにおける造形の歴史に大きな役割を果たしたことは、今さら言うまでもないでしょう。キリスト教が存在しなかったとしたら、西洋の美術がどのようなものになっていたのかを想像できないのと同様に、仏教が存在しなければ、アジアの美術の歴史は、随分と底が浅く、つまらないものになっていたのではないでしょうか。
釈迦、もしくは、仏教という教え自体を象徴する仏陀という、人を超えた偉大な存在を私たち人間がどのように造形し、表現し得るのか。それは、釈迦や仏陀をあらわさないことから始まったと考えられています。つまり、菩提樹や輪宝と言った釈迦や仏陀を象徴する記号、そして釈迦の生涯における重要な場所、釈迦が生まれたルンビニー、釈迦が悟りを開いたボードガヤー、初めて教えを説いたサールナート、そして、釈迦が亡くなったクシナガラといった聖地の図によって、釈迦、仏陀が象徴されました。このことは、不在 (見えないこと) によって何をあらわすのか、不在 (見えないこと) をどのようにあらわし得るのか、という造形行為自体への根源的な問いかけを含み、また、それぞれの場所をどのようにあらわし分けるのか、山や木や川や水、そういった自然、風景をどのようにあらわしたら、その場所がかつて聖なる存在をとどめた場所であることを人に伝え得るのか、という課題も与えました。
さらに釈迦や仏陀の姿があらわされるようになって以降、釈迦という、一定の寿命を持ち、歴史的にこの世界に実在した人と、永遠の仏としての釈迦を造形においてどのように区別し、あらわすことが出来るのかという問題が生じました。例えば、歴史的な釈迦の死であるとともに、釈迦の教えが個人の肉体を離れて、人々のもの、永遠のものとなる「涅槃」の場面は、果たして悲しみの場なのか、喜びの場なのか、それをどのように造形するのか。そして、造形することは、教義をどのように理解したのかを示すことになります。
この『釈迦信仰と美術 作品解釈の新視点』という書物は、世界中で活躍する気鋭の研究者13名が研究会で発表、討議した内容を論文化し、一つの書物としたものです。その対象は、紀元前のインドから我が国の明治時代に至る広範なものであり、それぞれの議論は、美術史学研究の基本である個別具体的な造形作品の詳細な分析から出発し、その歴史的な意味を明らかにします。そして、そこには上記したような、教えの理解と造形との関わりに対する先鋭な意識が見て取れます。この書物を手に取ることで、釈迦をめぐる美術が、アジアの造形の歴史において、極めてダイナミックに展開したものであり、インド、西域、中国、朝鮮半島、日本などの各時代を通じて様々な優れた造形を残したことに改めて気づかされます。本書は、仏教美術研究の基本的な知識や考え方を提供するとともに、その最先端へと私たちを誘ってくれます。これから仏教美術を学ぼうとする人、仏教美術研究の現在地を知りたい人、皆さんにおすすめする所以です。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 増記 隆介 / 2024)
本の目次
第I部 釈迦の生涯をたどる―仏伝と仏蹟巡礼の美術
いわゆる「仏陀なき仏伝図」に表現されたブッダと声聞乗(有部および大衆部)の仏身論について(外村 中)
南アジア初期仏教美術における聖地表象―仏伝図との関係を中心に(島田 明)
ガンダーラ地方における初期の仏伝図の探究―ラニガト寺院址出土浮彫画像帯の分析から(内記 理)
聖地と光の幻影―女神マーリーチーをめぐって(マイケル・ウィリス)
安塞大仏寺四号窟における図像構成の意義と北朝期の仏伝表象(稲本泰生)
第II部 釈迦の姿をあらわす―仏のかたち人のかたち
佛從何出生―ブッダイメージの中国化と二元化(岩井共二)
草座釈迦像とその儀礼―宋元江南仏教儀礼の中世日本への伝播(西谷 功)
一休宗純賛「苦行釈迦図」(京都・真珠庵)の図像的淵源(板倉聖哲)
天平様式観の形成―日本古典美術の構築と受容(中野慎之)
第III部 釈迦の不在をこえる―涅槃表現の諸相
初唐期及び奈良時代の涅槃表象と涅槃観(田中健一)
「応徳涅槃図」再考―原本の存在とその絵画史的位置(増記隆介)
京都国立博物館蔵釈迦金棺出現図に関する諸問題―主題の観点を中心に(大原嘉豊)
達磨寺所蔵仏涅槃図考―釈迦の姿形と賛文を中心に(谷口耕生)
あとがき/執筆者一覧
関連情報
講演とフォーラム「仏伝の文学と造形」 (仏教芸術学会 2023年12月23日)
https://www.waseda.jp/flas/rilas/news/2024/02/19/12532/