東京大学教員の著作を著者自らが語る広場

白い表紙、デスクの上に開いた本の写真

書籍名

或る英国俳優の書棚

著者名

野村 悠里

判型など

268ページ、A5判、上製

言語

日本語

発行年月日

2024年1月

ISBN コード

978-4-8010-0758-1

出版社

水声社

出版社URL

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学内図書館貸出状況(OPAC)

或る英国俳優の書棚

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大英博物館から歩いて数分、学生の行き交うブルームズベリーに、ロンドン大学セネート・ハウス・ライブラリーは建っています。ちょうど100年前のこと、図書館の建設が始まった1932年に、或る英国俳優が500冊のリトル・ブックを寄贈しました。俳優の名は クロフトンです。とはいえ、ロンドンで名前を知る人は幾人いるでしょうか。若くして舞台を去り、76歳でその生涯を終えました。当時の新聞『ザ・エラ』は、次の訃報を伝えています。
 
――セシル・クロフトンは、幅広い役柄を数多く演じた俳優であった。アマチュア時代を経てプロ・デビューは、ウィルソン・バレットが率いるプリンセス劇場の『ロンドンの光』であった。その後もロンドンの舞台で活躍し、ロイヤリティー劇場の『メリー公爵夫人』に登場した。各地のツアー公演にも出演を続け、『ジム・ザ・ペンマン』『ミドルマン』『ドクター・ビル』『教授の恋愛物語』の舞台で重要な役柄を演じた。――
 
この記事は1935年11月末、逝去の数日後に『ザ・エラ』で報じられました。寄贈から2年しか経っておらず、図書館もまだ完成していませんでした。クロフトンは、長年に歳月に渡ってリトル・ブックを蒐集し、書棚に大切に並べていました。自らの死期が近づいていることを知り、物語を閉じ、人生を終えるための準備をしていたのかもしれません。
 
本書では、英国の演劇史に名前を残すことのなかった「或る俳優」について、ささやかなスポットライトを当てることを試みます。まず、俳優が書きためていたスクラップブックを開いてみることにしましょう。さまざまな断片がコラージュされた日記です。絵葉書、落書き、ノート、写真、舞踏会のカード、手紙、新聞、雑誌、ポスター、舞台のちらしなど、彼の過ごした時間の痕跡を追いかけてみたいと思います。
 
クロフトンが蒐集したのは、16世紀から19世紀に出版された文学、古典、詩集、戯曲の小型本です。色とりどりの革装幀は、まるで舞踏会のようにバリエーションに富んでいて、金箔押しや模様染めなど、製本職人の技が光ります。コレクションの蔵書構成は、製本史研究からすればユニークで、産業革命前後の装幀、フランス革命前後の出版物など、これまで考察対象にはなりにくかった時代のものが多数あります。
 
リトル・ブックを開くと、見返し紙には「誰も死ぬまで幸福ではない (Dici beatus ante obitum Nemo supremaq; funera debet)」というラテン語の蔵書票が貼られています。ヘロドトスの『歴史』に出てくるアテネの賢者ソロンの言葉です。蔵書票の挿絵には、書棚のある部屋が描かれています。部屋の中央の男性は、ゆったりと肘掛椅子に座り、リトル・ブックを読んでいます。部屋の奥の窓ガラスは大きく開いており、窓の向こうには海岸の景色が見えます。持ち主がいるのは、どこか海辺の近くの家なのでしょうか。窓の向こうにどんな風景を見ていたのでしょうか。本を握ったクロフトンが、もう一度、舞台の上の椅子に座って、読者の前に登場してくれることを願っています。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 准教授 野村 悠里 / 2024)

本の目次

プロローグ
 
第1章 小さな書棚
リトル・ブック/リトル・クロフトンのおいたち/もうひとりのアノニマス/スクラップブック
 
書棚I――赤色のカタログ
書棚II――もうひとつの蔵書票
書棚III――幻のスクラップブック
 
第2章 少年フレデリックの読書
フォレスト・スクール・マガジン/俳優マクレディ/タヴィの歌/セシル・クロフトンの後悔
 
書棚IV――リトル・ブックの舞踏会
書棚V――クロス装幀
書棚VI――背表紙
 
第3章 俳優クロフトンと戯曲
シルバー・キング/シェイクスピア/ネル・グウィン/沼の家/ミスチーフ
 
書棚VII――金箔押し
書棚VIII――色染め
書棚IX――マーブル染め
 
第4章 クロフトンの文筆
ジム・ザ・ペンマン/幸福な二人組/ベンクーレンからカプリコルノ号まで/エリックの天使/ディックの相続人
 
書棚X――本を綴じることI
書棚XI――本を綴じることII
書棚XII――小口金箔
 
第5章 クロフトンのマネジメント
セシル・フレデリックの代役/クロフトン・カンパニー/アンティーク・ショップ/宝石商のトリック/喪とアンティークの寄贈
 
書棚XIII――金に代わる豆
書棚XIV――消えた綴じひも
書棚XV――エトルリア風の壺
 
エピローグ

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