「幕末維新史研究と井伊家史料」を開催 『井伊家史料』完結記念国際研究集会
2022年10月1日(土)、本所主催・JSPS科学研究費補助金基盤研究(B)「日本近世史料学の再構築―基幹史料集の多角的利用環境形成と社会連携を通じて」及び本所維新史料研究国際ハブ拠点形成プロジェクトとの共催、JSPS科学研究費補助金基盤研究A「在外日本関係史料の調査と貴重史料の研究資源化による維新史料研究国際ハブ拠点の形成」の協力により、国際研究集会「幕末維新期研究と井伊家史料」を開催しました。
この研究集会は、『大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料』(以下『井伊家史料』)の出版が2019年の第30巻で完結したことを記念して企画されました。もともとは2020年3月に開催を予定していたものの、新型コロナウイルス感染症の拡大によって中止を余儀なくされ、今回オンラインに形式を変更して開催したものです。
『井伊家史料』は、現在国指定の重要文化財として彦根城博物館に所蔵されている「彦根藩井伊家文書」を編纂・出版したものです。「彦根藩井伊家文書」は、江戸時代を通じて彦根30万石を領した井伊家に伝来した文書群であり、江戸時代中期から幕末を中心として、井伊直弼大老在任中の文書のほか、藩主家文書、彦根藩政文書といったものからなる約27,000点の文書が残されています。長らく未公開でしたが、1959年から刊行が開始された『井伊家文書』によって井伊直弼関係史料が、そして1978年度から彦根市が行った史料調査報告書によってその全体像が、学会・社会に共有されることとなりました。この研究集会は、『井伊家史料』についての理解を深め、広く活用されることで、幕末維新期研究の発展につなげていくことを目的として、2部構成としました。第1部では、『井伊家史料』をはじめとする幕末の諸史料から19世紀半ばの日本政治のありよう及び特質を問い直し、第2部では『井伊家史料』について編纂者としての立場、及び井伊家・彦根藩研究者としての立場から見つめるものとしています。第1部では北海学園大学名誉教授の菊地久氏とソウル大学校人文大学東洋史学科教授の朴薫氏から、第2部では東京大学名誉教授の宮地正人氏と京都女子大学文学部教授の母利美和氏から、それぞれご講演いただきました。司会は本所教授の箱石大氏が担当しました。
研究集会の冒頭では、本郷恵子所長からの挨拶、本所教授の杉本史子氏による趣旨説明が行われたのち、各講演が行われました。
まず第一部の菊地氏による「幕末の幕府政治と井伊直弼」では、研究史を整理しながら自身の研究の出発点、問題意識に触れたのち、第一に、表方における合議分掌と奥向きでの裁可是認という多極分権的な幕府の意思決定システムにおいて、井伊直弼やそれに先行する阿部正弘・堀田正睦がどのように政治的リーダーシップを発揮したのか、第二に、諸侯諮問に見える合議分掌という幕府の政治システムの間口開放は、政治課題に対する最適解抽出方法ではあっても繰り返されるとかえってリーダーシップの弱体化を招きかねず、その性格をどう評価するのか、という二つの論点が提示されました。そして、井伊直弼について、そのリーダーシップの発揮方法が、既存の制度を前提としてその枠内でできることを追求する制度的リアリズム、そして制度が崩壊しつつあり残骸となりつつある中で発揮される状況下の中のリアリズムという政治的リアリズムの二類型のどちらでも評価できないことを指摘しました。
続く朴氏の「幕末期幕府権力をどう見るか―「幕閣」という謎」では、一般に変革期の研究においては開明派と守旧派との対立構造が暗黙裡に設定され、歴史の勝者となる前者に注目が集まりやすい傾向があり、幕末維新期についても、開明派が幕政に参与する機会を得て改革を試みたものの、守旧派の反発によって失敗したことで明治維新を迎えるという叙述が多くみられ、薩長に代表されるいわゆる雄藩や井伊直弼については研究蓄積が多くみられるのに対して彼らを挫折させた幕閣に関する研究が薄いという課題が提示されました。そのような挫折の具体例として徳川斉昭の幕政参与や井伊直弼の大老就任を挙げ、立場や意見は異なるものの、共に幕閣に対して意思を押し通すことが難しい状況が繰り返されていたことが指摘されました。こうした「守旧派」幕閣が強固に存在し続けたことの一因は、藩政と比較すると主君親裁がなく、激論が度々交わされるような御前会議もなかったことに求めうるのではないかという見通しが示されました。そして大身の家門や譜代大名、雄藩の外様大名を差し置いて、小身の譜代大名が老中として幕政を専担する体制自体、中国や朝鮮と大きく異なっており、小身の老中集団の手に余る国家的危機に際して幕政参与や大老、政治総裁職が幕政に参加するものの旧来の幕閣が権力を維持できた事情を明らかにすることで、東アジアの諸国家と異なる近世日本権力の特徴が見いだせるのではないかと論じました。
休憩をはさんで行われた第二部の宮地氏による「『井伊家史料』編纂と私」では、実際に『井伊家史料』の編纂に携わられた経験から、新たな近世国家論や幕府像を持つに至った経緯、そして今後の課題が提示されました。史料編纂所入所前に近代史を専攻し、近世における天皇・朝廷を古代の残滓、或いは単なる宗教的権威と見ていたところに、近世政治史でも最も難しい諸課題が噴出していた安政五年の『井伊家史料』編纂の担当を命じられたことで、それまで幕末特有の問題と認識していた公武合体というあり方が、幕末に限定されるものではなく、幕府は朝廷と合体することによって国家権力たり得ていたのではないか、と考えるようになり、自身の近世史研究の出発点となったことが紹介されました。そして、公家史料にあたり、そこから公武合体を考えていくなかで、全国の社寺への位階受領の事例から、朝廷は一つの国家を成り立たせる不可欠の要素であり、最幕末に分裂していくまで、朝幕関係を前提として初めて幕府が国家として存在していたという考えに至ったこと、さらに『井伊家史料』編纂に従事するなかで、幕府が情報収集・集約するシステムの強固さに触れ、「幕藩制国家論」が提示する二重国家論に疑問を抱くようになり、幕府そのものが国家権力であるという見方をするようになったことが示されました。そのうえで、幕末に公議輿論という考え方が広まっていくなかで、幕府がどのように最後まで権力を維持しようとしたか、そのためにどのような形を展開していこうとしていたか、そこに幕臣・旗本のどのような層がリーダーシップをとって遂行しようとしていたかが残された課題として提示されました。
最後の母利氏による「『井伊家史料』と明治維新」においては、十八年間彦根城博物館の学芸員として「彦根藩井伊家史料」に携わられた経験から、明治維新以降の伝来過程とそこにおける改竄のあり方が明らかにされました。まず「彦根藩井伊家文書」の概要や大まかな伝来過程、直弼関係史料における文書の切り取りや断簡について紹介されたのち、明治十四年以降の井伊直弼顕彰運動の盛り上がりと建碑挫折によって、直弼の事績を編纂物として世に広める方針が定められたこと、そこで「直弼伝」の略伝として編纂された「磯打浪」で孝明天皇や三条実美、松平忠固罷免に関わる史料・記事が削除・改竄されていること、「磯打浪」の脱稿後まもなく明治政府の修史館に提出された「公用方秘録」や編集写本史料にも同じ改竄が見られることが紹介されました。そして、直弼没後や直弼伝編纂の過程で収集・筆写された文書が「彦根藩井伊家史料」の一部として今日に伝来していることで、本来藩主家ではなく藩士家に伝来していたであろう文書も一体的に見ることができ、さらに「彦根藩井伊家文書」に井伊直弼の受給文書だけでなく直弼が文書を発給するにあたっての草稿も伝来していることから、これらを収録する『井伊家史料』は幕末の政治過程について双方のやり取りを明確に分析することが可能な史料集であるという意義を有することも示されました。
第一部の最後には発表者同士での質疑が、第二部の最後には発表者同士に加え参加者からも質疑が行われました。第一部においては、菊地氏発表に関して井伊直弼権力の評価について専制・専断の内実があったかどうかや、阿部正弘政権以降の幕府の対外政策決定過程の評価をめぐって議論されたほか、朴氏発表について東アジアの中で幕府権力を見る際に、「家門」の政治への関わりをどう捉えるのかについて、特に朝鮮と中国の支配層が家門として同一視されるのか、中国では科挙によって支配層に上昇していくが、その母体の郷紳層は朝鮮の両斑の如き家門といえるのかが議論されました。第二部においては、まず発表者同士の質疑として、宮地氏発表における幕府や近世国家の位置づけについて、及び母利氏発表における井伊直弼顕彰運動の論理に関して基礎的な確認が行われたのち、安政の大獄における意思決定過程や大老就任前の井伊直弼からの老中への交渉ルートについて議論が行われました。続いて参加者から、史料編纂所における史料集編纂と江戸時代の和学講談所以来の伝統との関わりについてや、井伊直弼顕彰運動における史料改竄問題に関連して修士館への史料提出の経緯や顕彰運動前後での井伊家側での記述の差異について、それぞれ疑問が提示され、発表者が応答しました。
最後に、長く『井伊家史料』の編纂に携わってきた維新史料第一室教授の杉本氏より閉会の挨拶が行われ、本研究集会で示された『井伊家史料』の意義をより発展させることのできるツールとしての本所データベース「近世史編纂支援データベース」を紹介し、『井伊家文書』のさらなる多面的活用を願って研究集会を終えました。
本研究集会は、四時間半にわたる長丁場であったにもかかわらず、当日は138名もの参加者を得ることができたうえに、発表者同士の活発な議論が行われ、さらには全てを取り上げられない程に参加者から多くの質疑が寄せられ、大変に充実した研究集会となりました。