生涯型人工股関節が医療現場へ キャンパス内異分野連携が実るまで
従来型人工股関節の限界
骨折や変形性関節症などで機能を失ってしまった関節の治療には人工関節への入れ換えが有効です。手術件数は、国内で年間17万件、世界では430万件を超え、年々増加しています。中でも人工股関節は実用化から約50年にわたり、多くの人を痛みや歩行障害から救ってきました。
しかし、人工股関節には深刻な問題があります。使用しているうちに人工股関節のまわりの骨が消失してしまうことがあるのです。そのような場合、新しいものに入れ換える再置換術が必要です。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
人工股関節の関節面は、大腿骨側に固定される球状の骨頭と、骨盤側に固定されるポリエチレンライナーの組み合わせでできています。
しばらく使用すると、ライナーと骨頭の接触面からポリエチレンの摩耗粉が生じます。すると、生体の免疫システムを担うマクロファージという細胞が、この摩耗粉を異物と認識して取りこみます。その際に、破骨細胞という細胞を活性化して周囲の骨を消失させてしまうことがあるのです。
硬いポリエチレンの開発や代替材料など、ライナーの基材に関する研究が世界中で行われましたが、決定的な解決には至っていませんでした。
医工連携のきっかけは新聞記事
骨が消失した部分に再び人工股関節を入れる再置換術は、非常に難度が高い手術です。また、回を追うごとに術後のリハビリや入院は長期化し、経済的負担は言うまでもなく、患者の肉体的・精神的負担も増大するばかりです。このため、少しでも長持ちする人工股関節の開発が求められていました。
1999年、医学系研究科の茂呂徹特任准教授は、1人の患者から新聞記事を見せられました。同じ東京大学の工学系研究科石原一彦教授による「2-メタクリロイルオキシエチルホスホリルコリン(MPC)ポリマー」という材料の研究成果に関する記事です。見出しには「人工関節にも応用」とありました。
とにかく話を聞きに行こうと、医学系研究科の高取吉雄特任教授と茂呂特任准教授、医学部附属病院整形外科脊椎外科の川口浩准教授は、すぐに石原教授を訪ねました。
細胞膜に近い「MPCポリマー」
石原教授は、生体内で異物と認識されない生体親和性の高い材料、バイオマテリアルの研究者です。体に埋め込む医用材料の場合、血液凝固や炎症反応などの生体反応を生じるものは使うことができません。石原教授が注目したのは細胞膜でした。
細胞膜は脂質の二重膜でできていて、その表面には親水性の基であるホスホリルコリン(PC)基が集まっています。
石原教授が大量合成法を開発したMPCポリマーもPC基を持つ材料です。MPCポリマーで表面処理したプラスチック板は、濡らすと表面に水を含み、ぬめりを感じるほど滑らか。まるでドジョウを触っているようです。
細胞膜に非常に近い組成を持つMPCポリマーで表面処理すると、材料は生体反応を引き起こしません。すでに人工心臓など数々の医療機器がこのポリマーの恩恵に浴しています。
軟骨の構造を真似する
関節を覆う軟骨の表面には、リン脂質が集まって表面を滑らかにしています。そこで、MPCポリマーを人工股関節の関節面に用い、軟骨の表面構造を構築するという発想が生まれました。
「表面処理というアイデア。これが画期的でした」と高取特任教授は言います。
医療機器メーカーも加わり、工学・医学・企業の壁を越えた連携による新しい人工股関節の開発が始まりました。
軟骨では、リン脂質を持つポリマーがひげのように表面に結合しています。そこで研究グループは、この構造を再現することを目指し、光グラフト重合という手法でMPCポリマーのひげをポリエチレンに生やすことにしました。
生体を模倣した新しい人工股関節は、予想以上の低摩擦を実現しています。親水性のPC基を持つMPCポリマーのひげが水を引き付け、ポリエチレンと骨頭の間に水の層が作られるのです。そのためライナーの摩擦係数が驚異的に下がりました。例えば15年分に相当する1500万歩を超えた歩行シミュレーションを行っても、ライナーはほとんど摩耗しません。2011年現在、歩行シミュレーションは70年に相当する7000万歩を超えましたが、大きな摩耗は起こっていません。
またMPCポリマーは生体親和性が高いため、仮に摩耗しても、微粒子が破骨細胞を活性化することがありません。長寿命が期待できる人工股関節の完成です。
実験室の技術が患者さんに届くまで
“患者さん側から『これを使ってください』と指定していただける製品になるのではないかと期待しています”
医学系研究科・茂呂特任准教授
医療機器開発のゴールは実際の治療に役立つことです。製品化までにはシミュレーター試験や治験など、数多くのハードルがありました。
「大学が作るのは、例えるならお金も時間もかけてよいF1マシーン。会社はその技術を使って大衆車を作らなくてはいけないのです」と石原教授。
実験室の技術をいかに製品化するか。医療機器メーカーである日本メディカルマテリアル社の京本政之さんは、医学系研究科と工学系研究科の両方に机を置いて開発に取り組みました。「先生は大衆車とおっしゃいましたが、そのなかでも高級スポーツ車くらいのものを作らないといけないのです」と京本さんは言います。体内に埋め込む人工股関節は医療機器の中でもハイスペック。医学的要求と工学的技術を結びつけ、高い信頼性・生産性・機能性を同時に満たすことを目指した高度な開発が行われました。
「実験結果が出るとすぐに議論できる。工学部と医学部が同じキャンパスにいる近さが鍵でした」と石原教授は言います。
分野の垣根を越えた共同研究の成果が、ついに医療の現場に届きます。才能と情熱が出会い、新しいアイデアや成果が生まれる場所。それが東京大学です。
研究者情報
石原 一彦 教授 (大学院工学系研究科・工学部 マテリアル工学専攻 バイオエンジニアリング専攻)
京本 政之 研究員(大学院工学系研究科・工学部 マテリアル工学専攻/ 大学院医学系研究科・医学部 関節機能再建学講座 / 日本メディカルマテリアル株式会社)
高取 吉雄 特任教授 (大学院医学系研究科・医学部 関節機能再建学講座)
茂呂 徹 特任准教授 (大学院医学系研究科・医学部 関節機能再建学講座)
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関連情報
2011年 独創性を拓く 先端技術大賞: 経済産業大臣賞を受賞しました
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大学院医学系研究科・医学部ウェブページ
石原研究室
医学系研究科 関節機能再建講座
医学部附属病院 整形外科・脊椎外科