言葉の威力が最も発揮されるとき 「あの戦争」の背後を貫く中国要因
2015年夏、首相が「戦後70年談話」を発表し、報道各社はこの話題を一斉に取り上げました。日本にとって一つの節目となったのは間違いないところですが、一連の報道で用いられる言葉に違和感を持った歴史学者が本郷にいました。人文社会系研究科の加藤陽子教授です。
開戦時期が曖昧な「あの戦争」
「各社とも「あの戦争」や「先の大戦」などの表現を用いました。「1945年8月15日に終戦を迎えた戦争」とする社もありました。結局、中国との戦争とそれに続く太平洋戦争との関係を、70年たっても日本は理解できていないのだ、と改めて感じました」。
わかりにくさの主因は1937年に宣戦布告抜きで日中戦争を始めたことにあると捉えてきた加藤教授は、今年、長年の研究成果の一部を論文にまとめました。着目したのは、1940年9月の日独伊三国軍事同盟調印、10月の大政翼賛会成立、翌年4月から11月までの日米交渉。以上3つの施策の背景に、一貫して対中和平構想があったことを史料から描きました。
三国同盟、大政翼賛会と日米交渉
ここで、近現代史を学んだ人なら思うでしょう。この3つはむしろ日本が軍国主義を押し進めた里程標ではないか、と。学んでいない方でも、米英との対立を鮮明にした同盟、政党が一斉に解党した結果生まれた組織、時間をかせぐためだけの交渉、といった負のイメージを漠然と抱いているはずです。
「そう考えられてきましたが、新史料を読み込みますと、日本の意図が見えてきます。たとえば『蔣介石日記』からは、蔣が三国同盟調印後の日本とむしろ講和しようと考えていたことが見えてきます。日独に加えて中国も加わった大陸同盟を考慮する勢力が中国側にいた。反共産主義を前面に出した停戦交渉に天皇も熱心であったことは、『昭和天皇実録』から窺えます」。
大政翼賛会が結成された理由の一つに、中国との停戦を実現するための国内政治勢力の基盤固めという側面がありました。衆議院議員の過半数が対中和平に賛成していた事実もあります。日米交渉については、これまで松岡洋右外相と野村吉三郎駐米大使の方針の違いばかりが強調され、交渉失敗の理由もそこに帰せられることが多かったのです。しかし、両者ともに、中国を交渉の席につかせる仲介役を米国に依頼するための交渉という点では一致していたことが、日米交渉の外務省記録や野村吉三郎関係文書から浮かび上がる。そう加藤教授は主張します。
中国との関係から日本史を読み解く
日本が採った3つの施策を一括してとらえ、日本の国内政策と対外態度を貫く観点として、中国問題の存在を見極めたところに独自性があります。
三国同盟は日独関係史、大政翼賛会は日本政治史、日米交渉はアメリカ史という枠に囚われず、横断的に捉えたところに加藤教授の真骨頂がありそうです。
「昔、短期間ですが米国での在外研究を体験しました。一つの図書館に、ソ連・ロシアを含めたアジア諸国の文献・史料が一括収蔵されていることなど大変に刺激的でした。戦前期の日本の為政者自体、中米ソといった多様な国家を相手としていたわけですから、分析する側の頭もそれに対応しなければならないと思うわけです。日本史は中国抜きに語れない、という感覚はそこで芽生えたのかもしれません」。
言葉のもつ力に魅せられて
自身の研究の特徴は、戦争が避けられなかった要因の解明ではなく、戦争を拡大した側の論理を正確に析出する点にあるとする加藤教授。数々の著作を見ると、必ず登場する題材は、戦争です。外見は柔和で上品な方ですが、なぜ戦争を研究テーマに選んだのでしょうか。
「ロシア文学が好きな文学少女でした。ある時、トゥキディデス『戦史』の中の、若者を戦争に動員するための演説の場面に釘付けになりました。言葉が研ぎ澄まされ、言葉の持つ力が全力で動員されるのが戦争なのだと気づかされました。ああ、そっちか、言葉ってすごいぞ、おもしろいぞ、と」。 兵器ではなく、兵器にもなり得る言葉の力に魅入られて史学の門を叩いた加藤教授。昭和天皇の戦後の生涯に迫りたいという次作は、どんな研ぎ澄まされた言葉で綴られるのでしょうか。
取材・文:高井次郎
取材協力
人文社会系研究科 加藤陽子教授