みずからガラパゴスに閉じこもり、超高精度の時計を作って世界一に。｜ UTOKYO VOICES 053

ドイツのマックス・プランク量子光学研究所（MPQ）は「量子光学の大聖堂」と呼ばれていた。レーザー光で原子を冷却する研究で博士号をとり、駆け出しの研究者だった香取は大聖堂に足を踏み入れた。

香取がMPQで研究したのは、レーザーでイオンを冷却するイオントラップ。「単一イオン時計」の開発につながる技術だ。現在「1秒」を定義しているのはセシウム原子時計だが、その次世代の時計は単一イオン時計だと目され、世界中の研究者がわれこそはと研究に乗り出していた。

「世界のトップ研究者が集うMPQは、論文になる前の最新の研究が情報として集積される場所でした。自分が日本に戻ったら、日々ここで最新の成果をもとに議論している研究者との情報戦で負けてしまう。ならば、生き馬の目を抜くイオントラップ研究から離れ、彼らがまったく目を向けていない方向で研究をしよう、と思いました」

香取は大聖堂で自分に必要な知見を吸収した後、日本という“ガラパゴス”に閉じこもり、独自の分野を模索しながら研究を進めた。4年後、中性原子をレーザー光の格子に閉じこめて時計に利用する「光格子時計」を考案。原子時計の学会で発表した。

しかし、次世代の時計は単一イオン時計しかないと思われていたところに、突然若手研究者が現れ、見たことも聞いたこともない方法で時計が作れるぞと言いだしても、理解する人はまったくいなかった。

競争に巻き込まれたくない香取にとって、この無関心は望むところでもあった。自分のペースで、世界一の時計を実現してやろう。3年後の2004年、香取は自分の手で、現在のセシウム原子時計の精度をはるかに上回る時計を作ってみせた。しかも、計測時間は単一イオン時計の100万分の1しかかからない。

香取の光格子時計の精度は、現在のセシウム原子時計の1000倍以上。しかし、それほどまでに正確な時計で何を測るのか。

相対性理論によれば、重力の小さいところでは時間が早く流れ、大きなところでは遅く流れるが、地球上ではその差が小さすぎて検知するのは容易ではない。ところが香取が作った光格子時計ならその差が測れる。つまり高所にいるAさんと低地にいるBさんの「1秒」は異なることが目で見えるのだ。

逆に、その差からAさんとBさんの高低差を知ることもできる。重力ポテンシャルの大小を測れるから、地中のマグマと空洞を見分けることもできる。「将来的には、時計で高低差の測量や地中探査ができる社会が来るでしょう」と香取は言う。

香取の成功は、イオン時計の一択だと思われていた次世代原子時計開発競争に新たなプラットフォームを築いた。いまや世界で40以上のラボが光格子時計の分野に乗り出している。ガラパゴスの楽園は、主の意志と関わりなく扉が開かれてしまった。

「それが嫌でたまらない時期もありました（笑）。でも今は、研究者同士が友好的な競争をしながら、分野として存在感を高めていくことも必要だと考えを改めつつあるところです」

次世代原子時計研究の進展を受け、改めて1秒の定義をしようという気運も高まってきた。新たな「秒」は日本から発信されるかもしれない。