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未来の医療技術が社会にもたらす功罪を、社会学の観点から明らかに。| UTOKYO VOICES 090

掲載日:2020年6月25日

UTOKYO VOICES 090 - 医科学研究所 教授 武藤香織

医科学研究所 教授 武藤香織

未来の医療技術が社会にもたらす功罪を、社会学の観点から明らかに。

<本記事の取材は2019年12月6日に実施しました>

大学3年の夏、体調を崩して病院に行った。何度も検査を受けさせられたが、いつになっても結果の説明がもらえない。不安を募らせた武藤が「先生は何の病気を疑っているんですか?」と尋ねると、担当医は苛立ちを露わにした。

「私が大学生の頃は、患者は黙って医師にすべてを委ねるもの、という空気があったんです」

怒鳴りつけるように医師が口にした病名を聞いて、隣にいた母親は泣き出した。「娘はもう助からない」と絶望してもおかしくない病名だった。

「結果としては誤診だったのですが、重大な病気かもしれないのになぜ、患者や家族にずっと何の説明もしないでよしとされるのか。その時、『医療者と患者の関係をきちんと研究したい』という思いが生まれました」

回復した武藤は、もともと専攻していた社会学の観点から医療倫理を研究する道に進む。ちょうどそのころ、遺伝性疾患であるハンチントン病の発症前の遺伝学的検査について国際ガイドラインが発表された。イギリスで研究していた武藤はその経緯を知って、強く胸を打たれた。

ガイドライン策定のための議論には、専門家と患者グループが対等な立場で参加していた。しかも議論は、遺伝学的検査が技術的に可能と判明した時、つまり実用化のずっと前から始まっていたという。

ひるがえって日本では、そのような議論が行われる土壌がなかった。遺伝が関わるものであればなおさら、議論そのものがタブーとなってしまうこともしばしばだった。

「でも、日本でもこんな議論ができるようにしたい。自分にできることは何かと考え、研究職を目指しました」

遺伝学的検査に限らず、ゲノム編集や再生医療など、萌芽的な医療技術が社会にもたらす影響について考えておくべきことは多い。親は生まれてくる子のゲノム編集をする決断をしても許されるのか、iPS細胞から卵子や精子をつくってもよいのか――。

そうした課題を探究し、望ましい姿、望ましくない利用について社会に提言する研究は、「ELSI(Ethical, Legal and Social Implications; エルシー)研究」と呼ばれる。1990年代にアメリカで生まれた学際的な研究で、武藤は日本のELSI研究をリードする一人だ。

いつも気をつけているのは、「この議論から抜け落ちている人がいるのでは?」と自身に問うこと。

「病気や障害をお持ちの方にしか気付けない意見が研究者に届き、研究者側の葛藤や悩みも率直に伝え返す。そういう対話のなかで最先端の医療研究が進むことが重要だと思っています。光が当たっていない方がいないか、いつも気にしています」

武藤らの研究から生まれた提言はいま、少しずつ実を結びつつある。萌芽的な技術を社会がどう受け入れ、どう使うかを議論するだけでなく、今後の研究の方向性に患者の意見を反映させようという動きもようやく日本で始まった。

まな板の上の鯉のように患者が一方的に医療を施されるのではなく、医療者、研究者、患者がともに、互いを尊重できる「パートナー」に。将来の医療技術についてあらかじめ議論し、医療のあり方を模索できる社会に。武藤は日々、その土壌を耕している。

写真:研究室ドア

Memento

元同僚などが自分に書いてくれたメッセージが貼ってある自室のドア。「毎日、部屋を開けるときに目に入るので、『がんばろう!』って思えます。あ、『たべられるマウス』というのは本物じゃないですよ、お菓子です(笑)」

直筆コメント

Maxim

「医療研究はいま病と闘っている患者さんの協力があって初めて進展しますが、その患者さん自身を救うことはできない。研究者と患者の間には途方もない時間スケールのギャップがあります。双方が夢を見られるように蝶番の役割をすることがELSI研究者の仕事だと思っています」

Profile
武藤香織(むとう・かおり)

1995年慶應義塾大学大学院社会学研究科修士課程修了後、東京大学大学院医学系研究科 博士課程(国際保健学専攻)へ。1998年単位取得満期退学、2002年博士号取得。信州大学医学部講師を経て2007年より東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター公共政策研究分野准教授。2009年より研究倫理支援室室長を兼務。2013年より現職。専門は医療社会学、研究倫理・医療倫理。遺伝性の神経変性疾患ハンチントン病の患者会立ち上げに尽力し、支援・記録を続けている。

取材日: 2019年12月6日
取材・文/江口絵理、撮影/今村拓馬

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