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知られざる日本史の謎解きに挑む 北海道常呂町で60年以上続く東大考古学教室の発掘調査

掲載日:2019年10月16日

北海道北見市常呂町の大島2遺跡で、擦文時代の竪穴住居跡の発掘実習に参加する学生たち

どんよりと曇り、時折小雨がパラつく不安定な空模様。今年8月、北海道北東部の北見市常呂町で11世紀から12世紀の遺跡の発掘実習に参加した東京大学文学部考古学教室の学部・院生らにとって、すでに前日の雨で泥だらけになっていたその日の現場は、最高の状態とは言えないものでした。

学生たちはそれでも、慣れた様子で車から降り、ゴルフ場脇から草むらを掻き分け林の中を進みます。1辺5メートルほどの四角く掘られた穴のある現場に着くと、全身に蚊よけスプレーをたっぷりと吹き付け、道具を手にし、4つの区画に分かれて黙々と土を掘り始めました。しばらくすると、学生の一人が、指導教員の熊木俊朗教授に向かって突然声を上げました。

「先生、土器が見つかりました!」

黒茶色の地面の中から現れたどんぶり鉢ほどの大きさの土器は、最初はほとんど土と見分けがつきませんでしたが、注意深く泥を払っていくと、次第に、鉢の丸みや高台まできれいに残した全貌を現しました。

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取材当日たまたま出土した土器

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土器の一部が地面に姿を現したのを確認後、その場所を囲って掘り出しを進める学生たち

今年の実習現場である大島2遺跡の竪穴住居跡の5号住居(調査自体は2016年に開始)で二つ目の「擦文土器」の出土の瞬間でした。

文学部の附属施設である北海文化研究常呂実習施設では、毎年8月から9月にかけての約1か月間、野外考古学実習が行われます。1957年に常呂で発掘調査を開始してから毎年継続され、これまでに延べ約1000人もの学生や研究者が参加してきました。

戦前から多くの考古学研究が行われ学術的な蓄積がある本州に比べ、特に常呂を含めた道東地域には考古学上解明されていないことが多く残っています。その意味でも、常呂という場所は、東大の考古学研究室のみならず、日本の考古学研究にとっても重要な価値を持つのです。

常呂と東大の関わり

そもそも、なぜ東大が、人口3700人の常呂町に考古学研究の拠点を構えることになったのでしょうか。

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大学卒業後、化学メーカーで2年間営業の仕事も経験したこともある文学部の熊木俊朗教授。東京出身だが研究者になってからはずっと常呂に住んでいる

助手時代から20年以上常呂に常駐する熊木先生によると、文学部の考古学は東洋史を基礎として始まり、戦前は中国・朝鮮をフィールドとしてきました。戦後まもなく、駒井和愛助教授を中心に考古学専攻が設置され、国内に目を向けた駒井助教授は、北海道網走市に残るオホーツク文化の代表的遺跡であるモヨロ貝塚の調査を始めます。

網走から車で1時間ほどの距離にある常呂との出会いは1955年、アイヌ語の調査をしていた文学部の別の研究者、服部四郎教授(言語学)が、樺太アイヌ語を話す藤山ハルという女性と常呂で遭遇し、聞き取り調査を始めたことがきっかけとなります。そこで会ったのが大西信武という地元の土木関係者でした。

「大西さんは、土木関係の仕事を通じて常呂に遺跡があることをよく知っていました」と熊木先生。「なんとか調査、保護してほしい、と北海道庁などを含めいろいろ掛け合っていたんですが当時は正直相手にしてもらえなかった。そこで東大から研究者が来ているということで乗り込んできたんです。話を聞いた服部先生は大西さんの情熱にほだされ、駒井先生に連絡。関心を持った駒井先生が常呂の調査を1957年に開始し、それ以来毎年ずっと調査を続けているのです」。

1965年、東大による発掘資料を公開するため、常呂町が開設した「常呂町郷土資料館」が最初の施設。地元の熱意に応える形で、常駐の助手を派遣した1967年から、今日まで拠点を維持してきました。

実習施設を含むサロマ湖沿岸の「ところ遺跡の森」には遊歩道が整備され、縄文、続縄文、擦文時代の復元住居を見ることができる

「もう一つの歴史」

日本史の授業では一般的に、採集・狩猟を中心とした縄文文化から、農耕を中心とした弥生文化に日本社会は移行したと学びますが、北海道では農耕が始まるのはずっと後で、独自の文化が展開します。

縄目の文様に代表される縄文土器を特徴とする縄文時代のあと、弥生時代ではなく続縄文時代という時代が始まります。約2400年前から約1400年前までの約千年間にわたって、縄文時代と同様に狩猟・採集を中心とした生活が続けられました。

北海道と日本各地の時代区分

その後、7世紀から13世紀頃まで続くのが擦文時代と呼ばれる時代で、この時代の人々も 、地面に大きな穴を掘って床と壁を造った半地下式の竪穴住居で暮らしていました。

擦文時代は14世紀ごろアイヌ文化期に移行していきますが、一方、北海道のオホーツク海沿岸には5世紀から9世紀にかけ、北方から渡ってきた異文化の人々が、まったく違う文化、オホーツク文化を展開します。彼らは海での狩猟、漁労を行い、クマを崇拝する独特の風習を持っていました。

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網走市の北方民族博物館に展示されているオホーツク文化の土器

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(左)先に発掘された大島2遺跡2号住居から出土した擦文土器 。ヘラ状の道具でつけた模様がこの時代の土器の特徴 (右)熊木先生のチームが発掘した擦文時代の木製のフォーク。この時代のフォークが出土することは非常に珍しいという

常呂地域には、旧石器時代から縄文、続縄文、擦文、オホーツク文化にいたるまで、人々が連続して住み続け、多くの遺跡が残された点が、北海道の他の場所にはない特徴だと熊木先生は話します。

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出土した炭化木製品。ひしゃくの一部ではないかと考えられている

常呂地域にはくぼみから竪穴だと判明している場所がなんと3000か所以上もあり、歴史のロマンを身近に感じられます。しかし、発掘にかけられる研究費や時間には限りがあるため、ポイントを絞りつつ精度の高い調査を進める必要があります。

熊木先生自身は、擦文文化とオホーツク文化の関係に興味を持って研究を進めてきました。発掘現場で出会う土器や、屋根や柱などが燃えて黒く炭化した炭化材は、大昔の人々の生活の様子を知る貴重な手がかりです。

「ここには資料がたくさんあって、ロシア・極東も含めて研究材料はたくさんあります。私たちの仕事は、仮説を立て、その仮説を発掘によって検証すること。その仮説が当たれば面白いし、外れたら外れたで面白い。掘るたびに何か発見があって、違っていればその説を修正して、ということの繰り返しですね」。

例えば、擦文文化では、住居を燃やした形跡が多く見つかっています。常呂町の丘陵の上にある大島遺跡でこれまで掘り起こした5つの穴はすべて焼失住居でした。

「住居に火をつけて燃やすのはなぜか。人が亡くなったときに、アイヌ文化では、家そのものや仮小屋を作ってそれを燃やし、あの世で住むための家を送る「家送り」と呼ばれる儀式があります。擦文もそうなんじゃないか、という仮説があって、発掘によって、家を焼く儀礼があったことが分かりつつあります」。

(左)層の色によって住居跡の時代変遷が分かるため、色も細かく記録する(右)常呂実習施設の夏木大吾助教

熊木先生とタッグを組む夏木大吾助教も、北海道に考古学的な魅力を感じ、研究のフィールドは道内に置き続けたいと語ります。夏木先生は今年6月、常呂から少し西にある、同じくオホーツク海沿岸の遠軽町にあるタチカルシュナイ遺跡で、縄文時代草創期の土器の破片を見つけました。

土器は16000年から11500年前のもので、旧石器時代に分類される時代ですが、最近では、北海道にも本州から縄文時代草創期の人たちが移住してきた証拠が少しずつ集まりつつあります。

縄文時代草創期の土器は、爪型文土器という、爪かそれに似た道具で付けた模様が特徴です。過去の発掘で、本州からの移民が十勝地方の帯広市まで来ていることは分かっていましたが、今回の調査でその土器の破片が40点以上見つかり、帯広よりさらに北の、非常に寒くて乾燥していたオホーツク海側まで来ていたということが分かったのです。

「日本は考古学の研究の層が厚く、蓄積がものすごくあります。本州の中で発掘をしても、新しいことはあまりもう分からない。分かっていることのほうがはるかに多い。そうなると、日本史の中心となるような場所から離れた北海道のほうが、次々と面白いことが分かって、またここの歴史を明らかにすることで日本史全体の理解も変わって来ます。歴史と文化伝統をひっくるめてとても面白い土地だと思っています」。

雨上がりの地面は泥だらけ。現地には蚊も非常に多い

厳しくも充実した実習

常呂での実習は考古学専修の必修科目で、参加学生はプログラム中の1ヶ月間、施設内の学生宿舎で共同生活を送ります。地元の方に作ってもらったおいしいご飯を毎日3食食べ、朝8時半に集合してから夜の8時のミーティング終了まで、院生のティーチング・アシスタントの統括の下、みっちり発掘技術を学びます。

「普段一人暮らしなので、他の同級生と共同生活するのは今回が初めて。7時半に起きて、8時半に集まって、というのも普段大学に行く時と全然違う(笑)。ようやく慣れてきたかなという気がします」と話すのは学部3年生の福永眞也さん。兵庫県出身で、大阪や奈良の古墳を通じて考古学に興味を持ち、将来は研究者になりたいと話します。

「本郷で入門の授業はあったけど、現場に立つのは初めてで、道具の名前とか知らないことばっかりです。自分が掘ったところから炭化材や土器が出て来るというのは、座学だけしていると経験できないこと。学部3年の時期からこういう体験ができるのはとても貴重だと思います」。

同じく3年生の橋本渚さんは、大学院まで進み、博物館の学芸員になることを目指しています。

「思ったより楽に掘れないんだな、と思いました。もっとサクサク掘って、遺物もゴロゴロ出てくるのかと思ったけど、最初に現地に来たとき、草がボーボーに生えていて、草抜きとか落ち葉拾いから始めないといけなくて」と振り返ります。

「でも楽しいです。炭化材を発見するだけでも、昔の人が住んでいた家から屋根が焼け落ちたものなどだと分かると、昔この土地にいた人間が使っていたんだな、それを自分が今見られるというのは、すごいことだな、と思います」。

大島遺跡近くの常呂森林公園内100年記念展望台から見渡せる常呂町。オホーツク海に面している

取材・文:小竹朝子

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