東大応援部発祥の名曲、「不死鳥の如く」から始まる物語
「不死鳥の如く」は、東大応援部の学生が1984年に作曲した仲間を鼓舞する応援曲です。
ご存じない方は、まずはぜひこの動画をご覧ください。
【応援団特集】東大「不死鳥の如く」 週末は神宮球場へ!(SPORTS BULL)
劣勢を跳ね返し、必ず逆転して蘇れという思いが込められたこの一曲は、東京六大学野球からはみ出して高校野球の世界にも拡散。
そのエネルギーは、原発事故の甚大な被害から再び立ち上がった飯舘の地にも伝播しました。
あきらめず苦難を克服しようとし続けることの意義を伝えるストーリーを、2人の当事者の声をもとに紹介します。
赤門旋風を背景に応援スタイル改革を決意
SHIMADA Hisaya
かわさき市民アカデミー副理事長/農学部卒
島田久弥さんは神奈川・桐蔭学園の出身。中高とラグビー部で過ごし、同部から東大に進んだ最初の二人のうちの一人となりました。入学後、ラグビー部の練習見学に行こうとしたところ、雨天で中止に。帰り道、応援部に入った友達から声をかけられたのが転機となりました。
「タダで飯が食えるぞと誘われて行ったら、すっかりその気になってしまい、応援部に入りました。ラグビー部に入った同期を応援しようとも思い直して」
島田さんが入学した1981年は、野球部が大活躍した「赤門旋風
」の年。盛り上がりを受けて応援部員も急増することに。東大の応援スタイルに物足りなさを感じた島田さんは、この代で変革をと決め、他大の研究を開始。慶大が応援歌の合間に大学名を叫ぶのに刺激され、全く違うリズムで「T、O、KYO」と叫ぶコールを考案し、曲をつなぐ役割を持たせました。
次に狙ったのはオリジナル曲です。早大の「コンバットマーチ」、法大の「チャンス法政」など、他大は独自の名曲を誇りますが、東大はルパンやアトムといった既存曲だけ。もちろんラグビー三昧だった少年に音楽の素養はなく、作曲経験もありませんでした。しかし。
「夏の昼下がり、家で寝転がって神宮の応援席を思い浮かべました。リードされた終盤、一死二・三塁で相手投手交代の場面。投球練習がじれったく、早くしろや、打ってやるから、と力が漲る様子を想像していたら、旋律が降りてきて。新聞の黄色いチラシの裏に五線を引いて書き留めました」
応援部の合宿で曲を披露し、タイトルを募ったところ、曲調から想像して複数の後輩が口にしたのが「フェニックス」。劣勢でもあきらめずに必ず逆転して蘇れと仲間を鼓舞する自分たちの姿に重なりました。
「応援部の真骨頂は、どんなにリードされていても最後まで勝利を疑わないこと。10点差あっても逆転を信じている。頭おかしいんじゃないのと思われそうだけど、本当に信じているんです」
短調が促すチャンスの高揚感
オリジナル曲「不死鳥の如く」は、1984年秋にデビュー。4年間で24の勝利を見届け、農学部を卒業した島田さんは、就職して後に6年の米国駐在を経験しました。帰国して久々に応援部OB会に参加した際、卒部したての後輩から聞いたのは、他大が「不死鳥」のような曲を作りたがっているという話。
「実は応援曲には長調が多く、「不死鳥」のような短調は珍しかったんです。ピンチでは物悲しげですが、チャンスではなぜか高揚の効果がある。そこが評価されたようです」
2008年に後輩の発案で「おーおー」と大声を出してメガホンを振り回すようになると、高校野球の応援にも使われて全国に拡散。甲子園の名応援歌CDにも採用され、東大の枠を超えて、仲間を鼓舞する曲として愛されるようになりました。
「昔と違い、応援席は盛況です。たまにしか勝たないのに多くの人が応援してくれるのは奇跡的。判官贔屓もあるでしょうが、応援部の一途な姿も理由だと思っています」
4年前、応援部の合宿に顔を出した島田さんは、現役部員から聞かれて「不死鳥」のことを話しました。翌年の合宿では、その後輩から「私も作曲したんです」との報告が。一昨年、応援部のレパートリーに新曲「青雷の轟き
」が加わりました。先輩が唯一残した一曲と同様、チャンスの高揚感を増倍する短調の旋律が身上です。


酒場で生まれた応援部との縁
MIZOGUCHI Masaru
東京大学名誉教授(農学生命科学研究科)
栃木県大田原市の米農家に生まれた溝口勝先生は、土壌物理学の研究者。農学部名物・上野英三郎博士とハチ公像
の広報活動でも知られる先生は、助教授時代に本郷・菊坂の居酒屋に通っていたそうです。
「ある夜、店の隅に学ランの男がいました。聞けば、応援部のリーダー。もう辞めたいが、4年生がゼロになるのは……と悩んでいるので、他人を応援できる人は偉いよと励ましたら、辞めずにその後も続けてくれました。以来、私は応援部の応援部を自任しています」
溝口教授が飯舘村に初めて行ったのは、2011年6月でした。大震災直後に先輩からシンポジウムで土の専門家として飯舘の土について話すよう頼まれた「Dr. ドロえもん」。まずは現場を見に行こうとしましたが、許可が下りず、しかたなく旅行者として現地入りしました。
「問題はセシウムで汚染された田畑の土をどうするか。私は穴を掘って表土を埋め込めば放射線量が十分下がることを飯舘で実証し、「までい工法」と名付けました。飯舘の言葉で「丁寧に」の意味です。セシウムは粘土粒子に強く吸着(固定)するので、埋めればもう動けないんです」
酒米作りで飯舘村の農業を支援
NPO法人ふくしま再生の会
とともに飯舘農業の再生に乗り出しましたが、汚染の印象がついた田でできた米は作っても敬遠される心配がありました。そこで考えたのが、酒米作り。表面を削って使う酒米のほうが、食べる米よりも安心に感じられそうです。この構想に賛同した飯舘村農業委員会会長(当時)の菅野宗夫さんが、酒米・夢の香を試験作付。避難指示が解除された2017年3月末には本格的な酒米作付が始まりました。
「この年は8月上旬まで天候不順に見舞われて生育が危ぶまれましたが、下旬になって天候が回復し、奇跡的に収穫できました。あきらめないでいたら天が味方をしてくれた、と思いました」
2017年8月、ふくしま再生の会の報告会に応援部員の姿がありました。「フレー、いいたて!」とエールを送りに来たのです。演舞の前口上のなかで、甚大な被害を受けた状況でも再び立ち上がり、蘇ろうとしている飯舘村を後押ししたいとの言葉を耳にした瞬間、溝口先生のなかで酒名が決まりました。実は作曲者の島田さんは農学部で3学年下の後輩にあたります。
収穫した米を喜多方の大和川酒造
に醸造してもらい、きりっとした純米酒が仕上がりました。ラベルには、飯舘村近くの佐須峠から3月の早朝に菅野さんが撮った、田んぼの雪から水蒸気が立ち上る写真が採用されました。
昨年9月、飯舘に家を借りたら、田んぼが4枚ついてきたと笑う溝口先生。それを機に、以前から研究で携わってきた幼苗一本植え高収量稲作農法(SRI)による酒米作りに着手しているとか。
「自分の田んぼで育てた酒米を食べる会もやりたいと思っています。酒米は普通に炊くとパサパサしておいしくないけど、チャーハンにすると結構イケるんですよ」
来春に行われる予定の酒米チャーハンの集い。お供はもちろん「不死鳥の如く」です。


飯舘村交流館 東大応援団演舞(YouTube)



お知らせ
2026年東京六大学野球秋季リーグは9月中旬~11月上旬に開催されます。神宮球場で東大を応援しましょう!


