麻酔が効くとどうして意識がなくなるの?→内田寛治|素朴な疑問vs東大
「なぜ?」から始まる学術入門
言われてみれば気になる21の質問をリストアップし、その分野に詳しそうなUTokyo教授陣に学問の視点から答えてもらいました。知った気でいるけどいざ聞かれると答えにくい身近な疑問を足がかりに、研究の世界を覗いてみませんか。
Q.8 麻酔が効くとどうして意識がなくなるの?
麻酔のおかげで患者は痛みを覚えることなく治療が受けられます。そもそも麻酔はどうして意識を飛ばすことができるの?電解質の移動と脂質への溶解度がポイント
麻酔がかかる仕組みの説明としては、2つの説があります。特異説と非特異説です。神経細胞の表面にある特異的な受容体に麻酔薬が結合して作用するというのが特異説。受容体はタンパク質であることが多いのでタンパク質説ともいいます。
神経細胞には様々なチャネルがあり、ナトリウムイオン、カリウムイオンや塩化物イオンといった電解質の通り道となります。細胞の外と内では濃度差があり、濃度の高いほうから低いほうに電解質が移って膜電位が変化すると、細胞は隣の細胞にシグナルを送ります。この現象が繰り返されて神経回路内で情報が伝わる。これが覚醒時の脳の活動で、それを止めるのが麻酔薬です。麻酔薬が働いて塩化物イオンが細胞内に入り、カリウムイオンが外に出ると、イオン勾配がなくなり、神経細胞がシグナルを隣に送らず、回路がつながらない。覚醒時は外から入る情報を整理して伝えますが、それを行わなくなるのが麻酔状態です。
非特異説は別名が脂質膜説。生物の細胞膜は親水性の部分と疎水性の部分で二重になっています。この脂質二重膜に麻酔薬が影響を及ぼすという説で、受容体が特異的ではない仕組みがあるという主張です。歴史が長いのは非特異説のほうで、1900年頃に出たマイヤーとオバートンの報告が有名です。麻酔の強さと油への溶けやすさの相関を検証し、麻酔薬は神経細胞の膜脂質に作用するという説を裏付けました。ただ、神経活動を抑制する仕組みは解明されませんでした。特定のタンパク質が欠損したノックアウトマウスの作成技術が進んだ1980年以降は特異説が主流になりましたが、それだけでは説明できないケースもあり、論争が続いてきたのです。
2020年になって画期的な論文が出ました。脂質二重膜にある脂質ラフト部分に麻酔薬が付くと、ラフト構造が広がって崩れてチャネルの活性を高め、カリウムイオンの流出を起こす結果、神経細胞の興奮が起こらない=麻酔がかかるという仕組みが報告されたのです。これは、特異説が主張する仕組みと非特異説が主張する脂質との相関の強さの両方が許容できるということ。どちらが正しいかを決めるのではなく、両者をつなぐ形になりました。
私は日本最古の麻酔学教室で6代目の教授を務めていますが、麻酔医はあまり社会的に知られていないと感じます。麻酔科医は手術室の麻酔を担うだけでなく、集中治療の知識と技術を持つ医師です。コロナ禍で集中治療医の不足が騒がれましたが、その任も担えるのが私たち。重症患者をケアするプロという一面を知ってもらえるとうれしいです。