東大の宝第1回
千円札の肖像には東大に縁のある偉人が3人連続で使われています。夏目漱石、野口英世、そして新券の北里柴三郎です。
野口と北里は伝染病研究所(伝研)と縁が深い医科学者で、二人にまつわる品々を展示するのが、伝研を継ぐ医科学研究所(医科研)の近代医科学記念館。紹介するのは、明治32年~大正5年の履歴書綴に残る二人の履歴書です。
新旧千円札の肖像になった二人の細菌学者の履歴書
南谷泰仁
NANNYA Yasuhito
医科学研究所 教授
近代医科学記念館 館長
北里は、熊本から上京して東京医学校(東大医学部の前身)に入り、留学先のドイツで破傷風菌の純粋培養などの世界的業績をあげて帰国。福澤諭吉などの支援で生まれた私立伝染病研究所の所長となりました。1899年に国立に変わり内務省所管となった伝研は、1914年に突如文部省に移管されます。履歴書はこの際に文部省に引き継がれたもののようです。北里が国費留学した際、2回目の延長願いは認められませんでしたが、この履歴書が明治天皇の元に届き、宮内庁から千円(現在価値800万円ほど)が支給されたおかげで留学生活が延長できたと伝えられています。
移管の件を事前に知らされず、文部省では研究を実地に活かせないと考えた北里は、一門とともに辞職して北里研究所(現・北里大学)を創設。後任が東大医学部の青山胤通だったため、東大と喧嘩別れしたと見る向きもありますが、そうではなかろうと語るのは、近代医科学記念館の南谷泰仁館長です。
「少なくとも青山vs北里の図式は違うと思います。香港ペストの件では対立しましたが、私的にはよい交流を続けていたことが、二人を知る長與又郎(後の東京帝大総長)の日記に記されています。学生時代から誰にも忖度せず批判する性格で煙たがられた面はあるでしょうが、彼が重視したのはあくまで科学的真理の追究でした」
北里が所長だった頃に伝研に勤めたのが野口です。1899年4月1日に事務取扱を嘱託され、4月8日に助手に。約半年後、蔵書の扱いの問題で辞めざるを得なかった野口に、横浜港の検疫所の職を紹介したのが、北里でした。横浜港での仕事ぶりが認められて清で働く機会を得た野口は、後にアメリカに渡りロックフェラー医学研究所などで活躍しました。
本人の履歴書によると、野口の本名は清作。改名は坪内逍遥の「当世書生気質」を読んだのがきっかけでした。自堕落な登場人物・野々口精作と名も生き様も似ていると気づき、自戒したのです。「野口が伝研で何かを成し遂げたわけではありませんが、ここで医科学者となる糸口をつかんだのは確かです」と南谷先生。
実は、世界的な細菌学者二人が履歴書に記した生年月日は実際のものとは違います。野口は旧暦と新暦の取り違えのようですが、北里は年齢制限があった東京医学校に入るためにあえて変えたと考えられます。もし北里が実際の生年月日を記していたら、野口を含めた日本の医科学者の系譜はどうなっていたのでしょうか。