赤門とは何か――歴史と建築の視点から(東大基金特別セミナーより)
東大150周年事業として始動した「ひらけ!赤門プロジェクト」にちなみ、昨年12月11日、本郷にある懐徳館で特別セミナーが開催されました。
歴史と建築の視点から赤門と赤門周辺を考えようというこのイベントから、文化遺産と建築の研究者による2つの講演を紹介します。
赤門の軌跡と奇跡とは?赤門周辺の新活用プランとは?
赤門周辺の歴史的環境 200年の軌跡と奇跡
火事にも震災にも負けず

MATSUDA Akira
人文社会系研究科 准教授
いまから約200年前、徳川家斉の娘の溶姫が前田家に輿入れする際に赤門が建ちました。創建時の姿を描いた絵は残っていません。有名な総合図書館蔵の「松乃栄」は後から描かれたものです。その後、赤門は本郷の象徴になりました。1840年頃の「広重画帖」(国会図書館蔵)の錦絵「狂句合 本郷」
※1にはすでに赤門が描かれています。
1868年、本郷の春木町から大火事が迫りました。延焼の危機でしたが、幸い焼失は免れました。明治維新の際に金沢に戻っていた溶姫は、同年6月に逝去。赤門は溶姫用の門なので撤去されてもよかったはずですが、残りました。短期間ながら溶姫が明治を生きたからでしょうか。同年7月には上野戦争が起こります。加賀藩邸に官軍が立て籠って大砲を置いたとされますが、この戦火からも赤門は生き延びました。
明治になっても前田家は本郷に住み続け、1868年11月には明治天皇が前田邸に行幸します。大宮の氷川神社に行く際に休憩に立ち寄り、赤門を通過した記録が残ります。1868年の「東京名勝本郷之風景」(三代広重、史料編纂所蔵)※2にはその様子が描かれています。
しばらく前田家の門として機能した赤門ですが、1871年になると前田家の手を離れ、東京府、その後は文部省の敷地に入りました。1877年には東大が創立されます。同年にお雇い外国人のモースが残したスケッチ(Morse, E.S. 1917. Japan Day by Day, vol.1, Fig.279)※3に赤門が描かれています。薄が茂る寂しい場所だったことは、英文学者の馬場孤蝶が残した随筆でもわかります。



1885年、赤門は東大の正門となります。現在の正門は別の門ですが、赤門が正門の時期もあったのです。神田錦町にあった東大本部の本郷移転を機に正門としたことを示す文書が残っています(1885年7月20日付「本学事務所法文学部内ニ移転ニ付赤門ヲ正門ト定メタル件」/文書館蔵)。赤門を写した最古とされる1886-97年頃の写真(「東京帝国大学五十年史上巻」)※4には、「帝国大学」時代の表札が写ります。しばらくして門前のスロープがなくなり、塀は板塀から海鼠塀に。1902年の医科大学卒業アルバムを見ると、赤門前はかなり広かったことがわかりますが、翌1903年には約15m西に移築されています。
1923年にはまた危機が訪れました。関東大震災です。直後の写真(被災記録写真大正拾弐年度震災原板四ノ三/総合研究博物館蔵)※5では、足場が組まれ、瓦が落ちそうな様子や探し人の張り紙も見えます。1925年8月の写真でも、瓦の隙間から草が見え、番所にも草が生えて寂しい状態だったことがわかります。復興工事が進むなかで修理がなされ、1926年2月の写真には元の姿を取り戻した赤門が写っています。このとき本郷通り側の番所前に置かれた白い石柱は、いまも健在です。
明治になって江戸の建物が減り、1931年時点では東京に残る大名屋敷の主な門は5つだけでした。ここで国が赤門を旧国宝(いまの重要文化財に相当)に指定し、「國寶赤門」の標柱が立ちました。「帝国大学新聞」1931年11月2日の記事には、時代錯誤だから取り壊せという意見があったが、当時図書館長だった姉崎正治先生、建築学の伊東忠太先生や関野貞先生が強く反対して事なきを得たとの旨が記されています。赤門はここでも危機を乗り越えました。

両講演のほか座談会の模様もYouTube

空襲にも投石にも負けず
次に訪れた危機は太平洋戦争です。本郷も空襲で被害を受け、懐徳館がある場所もその一つでした。もともと当地には西洋館の初代懐徳館がありましたが、3月10日の東京大空襲で破壊されました。1945年3月21日の「帝国大学新聞」には、「赤門かくて焼けず」と題する記事があり、建築専攻の学生らがバケツリレーで延焼を食い止めたことが記されています。本郷通りを挟んだ森川町や本郷六丁目一帯が焼け、火の粉が赤門にも及びました。1942年に最初の空襲があった後、大学が防空訓練をした際の写真が、東大特設防護団設営部及営繕課団防空訓練写真帖(総合研究博物館蔵)※6にあります。この訓練が赤門を救う結果につながったのかもしれません。
戦後、1950年に重要文化財に指定された赤門ですが、その後は荒れ果てます。1958年2月8日「読売新聞」中央版朝刊には「腐る一方の赤門 雨もりに予算もらえず」という記事があります。文化財保護委員会にかけあってやっと修繕が可能となり、1959年に解体修理が行われました。その後は学生紛争の波が押し寄せました。「毎日新聞」1969年6月8日東京版朝刊に、「東大赤門も傷ついた 文学部団交、投石の応酬」という記事があります。左翼学生同士が赤門を挟んで石を投げ合い、170箇所で漆が剝落し、屋根瓦7枚と金具5箇所が破損したと書かれています。卒業生のなかには赤門前にタテカンがあった情景を覚えている人がいるかもしれません。『毎日グラフ』1977年4月26日号にはそんな様子が写っています。時は下り、1989年には平成の修理が行われて今に至っています。こうして赤門の軌跡を辿ると、よくぞ残ったなと思えます。本講演の副題(200年の軌跡と奇跡)もまんざらではないかもしれません。



時間と空間を紡ぐこと
歴史を未来につなげる

CHIBA Manabu
工学系研究科 教授
私は長くキャンパス計画に携わってきました。これまでの主な仕事としては、東日本大震災で被災した天井をはじめ、先人の志を読み解きながら現代の要請に応えて大改修を施した安田講堂、一度解体して復元した上に高層棟を積み上げた工学部3号館、歴史性と教育DXを融合する形で改修した工学部1号館15号講義室などがあります。大学の空間は終わりのない運動体であり、歴史を受け止めてどう未来につなげるかが設計の肝だと考えています。
赤門については、耐震補強をどのように行うかを学内で議論してきました。赤門全体の重量を軽減し、地震時の引き抜きに耐えられるよう最小限の補強を行うことになるでしょう。これは赤門の価値を損なわないための最小限の措置です。
一方で、赤門周辺エリアの検討も始まっています。2020年度、赤門脇トイレの学内デザインコンペが実施されました。対象敷地は東京大学コミュニケーションセンター(UTCC)横で、将来のインクルーシブなトイレの在り方を考えた学生チームのすばらしい提案が最優秀賞に選ばれました。ただ、工事着工前の埋蔵文化財調査において加賀藩の遺構が出たため、計画を再検討せざるを得なくなりました。苦渋の判断でしたが、重要な遺構を後世に伝えるために新たな検討チームが発足。私はそこで、遺構をUTCCとうまくつなげる形で再生するプランを考えました。
一つは、遺構を展示するだけでなく、東大の歴史をしっかり伝える場と捉え、UTCCの前を掘り下げて長い遺構をしっかり見せる展示空間を作るプランです。また、UTCCの建物をすっぽり鞘堂のように包み、UTCCが一つの展示物のようになるプランも考えました。このプランでは本郷通り側に人が通れるスペースが作れるのも長所です。もう少し現実的に、遺構を展示した上に地面がめくれあがったような屋根を設けるプランも作りました。遺構をそのままの状態で展示できれば可能性が広がります。
実は未整備だった赤門周辺エリア
赤門周辺をあらためて見ると、正門より知名度があるのに、実は整備は進んでいないことがわかります。赤門から医学部に続く道路の床仕上げはアスファルト舗装で、しかも道路は赤門の軸線と微妙にずれています。本郷キャンパスの床仕上げを整理すると、正門周辺や正門から安田講堂に至る通りは御影石です。安田講堂前には都電荒川線から持ってきた舗石ブロックも敷かれています。図書館前や医学部本館前なども御影石で、キャンパスの主要な外部には良い材料が使われています。ところが、赤門前はシンプルなアスファルト舗装。なんとか整備したいと思い、赤門前の道の車道を最小限にして広場状の歩道を広げるプランをチームで検討しています。守衛所の整備もあわせて行うと、正門の前とは別の特徴を備えた、様々な時代の時間が蓄積する空間として一帯が甦るはずです。
赤門周辺整備の現実的な最終案として検討しているのは、UTCCの前に軽やかで大きな庇を設けて遺構の上に架けるというものです※7–9。遺構をそのまま展示するには困難がつきまといます。地下から水が出たり、それがカビをもたらしたり、風雨に晒されて遺構が風化する懸念もあるので、最小限の空間で覆って遺構の公開と保存を行います。本郷通り側から内部に続く視線を遮らないよう、カーブをつけて庇を設置し、下にある遺構に負担をかけないよう、建物を軽くする必要があるため、薄い鉄板で作ります。鉄板は加工がしやすいので、アーチ状にカットし、全体の梁として機能させながら、雨樋の機能ももたせます。将来的には、UTCCを東大の歴史の展示空間として整備し、トイレと守衛所の一部もUTCCに組み込もうというプランです。


赤門をくぐった先に、木陰でくつろげる空間が広がる広場のような場を生み出せれば良いなと思っています※10。赤門周辺にはさまざまな時代の建物があり、さまざまな時間が蓄積しています。新しく計画する建物は最小限にとどめ、場所に刻まれた歴史を大事に継承しながら、デザインコンペの成果も取り入れたいと思っています。この空間が持つ時間の蓄積を丁寧に紡ぐことで、東大の他の場所にはない価値を生み出せると信じています。



耐震性の問題から2021年2月以降閉鎖されている東大のシンボルを甦らせ、ともに150周年を迎えるため、皆様のご支援をお待ちしています。