中世後期の禅僧・一休宗純 (1394-1481)。この人ほど、日本人に知られた禅僧はいないかもしれない。にもかかわらず――いや、だからこそ――その実相が摑み難い存在も、そういないのではないか。かく言う私も、幼少期から高校生くらいまで、「一休さん」が「とんち坊主」以上の存在と感じられたことはなかった。
その印象がガラリと変わったのは、大学に入ってはじめての夏休みのことである。ひとり旅の終わりに辿り着いたのが、京都府京田辺市の酬恩庵――またの名を一休寺――であった。ここで、一休の木像と頂相 (ちんそう)(禅僧の肖像画) に出逢うこととなった。その面構えを前にしたとき、大した知識のない人間にもその睨みがズドンと突き刺さってきた。その帰り、土産代りに売店で購入したのが「狂雲面前誰説禅」――狂雲の面前、誰が禅を説く――の短冊である。二十歳になったばかりの青二才にも、この一句が傲岸なほどに大自信を表明したものであること位は察しがついた。しかし、あの「とんち坊主」とおよそ結びつかぬこの「狂雲」は、どういうわけなのか――。
東京に戻って、直ちに一休のことを調べだした。一休の漢詩文を収録した『狂雲集』『自戒集』を紐解いてみると、そこには破戒とエロスを繰り返す「風狂」の姿が縦横無尽に描かれている。だが、難解な禅語を偈頌へと編みあげた一休のことばを読み解くのには、余りに多くの労力と時間が求められると気づかされもした。禅者としての一休を知るには、当然禅学の知見が要る。一休の生きた京都や堺や近江の時代背景を踏まえるためには、中世史学にたずねていかねばならない。漢詩で以て自らを表現した一休へは、漢文学のアプローチも求められる――一休への道のりは、厄介で険しいものであった。
これほど厄介な存在であるにもかかわらず、一休にはその逸話や伝説は実に数多い。とんち坊主、反骨と風狂の破戒僧、茶道の祖・村田珠光の師……自著『狂雲集』『自戒集』の難解さも相まって、後世の「一休像」はむしろ多種多様なメディアで語られ続けてきた。これらのエピソードは伝承のように思われるものも多いが、たとえそうだったとしても、単に信憑性に欠ける神話として片付けてよいものだろうか――。
このような問いのなかで、或る事実に思い当たる。一休に魅かれた人は、何も自分だけではなかった。室町時代から近現代に到るまで、数知れぬ人びとが一休に惹きつけられ、語ってきた。厄介で難しい一休が、どうしてこんなに日本人のこころに突き刺さってきたのか。行実の詳細は知られずとも、その姿がいつまでも忘れられていないのはどういうわけか。これはむしろ、日本人の文化史的・思想史的な問題というべきものなのではないか――何故どのように一休が語られたのかを追いかけることで、ひとつの「禅文化」の変遷を明らかにしていけるのではないか。これが、本論の課題となった。
本書では、室町時代を生きた一休宗純の実証研究とその没後に陸続と生れ続けた一休〈像〉の変遷とをつなぎ、戦後日本における禅文化の考究をみつめていく作業を試みる。そして、 前田利鎌、芳賀幸四郎、市川白弦ら知識人の語りを追いかけ、一休を語ろうとしながらも語る側からみた一休の〈像〉が提示されてきた変遷を戦後禅思想として捉え、〈語り〉のイメージリーディングの未開の地平を探るものである。序論は、一休〈像〉の変遷をたどることで、禅文化のひとつの展開を描出する試みである。第一章から第四章で取り上げた戦後知識人は、それぞれが哲学・文学・歴史学・思想史学・禅学などにおいて一休と禅を通してどのように自己を解き明かし時代を解き明かそうとしたかを示す好例たちである。更に補論は、『狂雲集』など一休のことばとその背景としての『臨済録』の読み解きを試みた覚書である。これらテキスト分析を総合するような形で、本書を通して一休と禅文化に関する〈語り〉が如何に多層的になり多面体のようになっているかを、少しでも味わって頂ければ幸いである。
(紹介文執筆者: 飯島 孝良 / 2022年3月28日)
本の目次
序 論 一休の〈像〉は如何に形成されてきたか――室町期から戦後日本へ――
はじめに
一 何故一休なのか――その〈像〉研究の意義
二 一休宗純の生涯――その素描
三 一休〈像〉の形成過程
四 一休〈像〉という媒介を通して何が語られたのか――「伝統」と「近代」
おわりに
第一章 一休像の近代的「発見」――前田利鎌の「禅」を手がかりに――
はじめに
一 前田利鎌の立場と問題意識
二 「一所不住の徒」一休への眼
おわりに
第二章 戦後日本における中世禅文化論と一休の像――芳賀幸四郎を中心に――
はじめに
一 芳賀幸四郎の着眼――戦後における一休論の嚆矢として
二 芳賀の問題意識と一休の像との対応関係――学術的問題と実存的問題
三 「東山文化」論と一休の像
おわりに
第三章 市川白弦の一休像――「即」の論理の批判的継承として――
一 市川における問題意識
二 「即」の論理と「風流」――市川における一休の像
おわりに
第四章 二十世紀の「禅学」と一休像――柳田聖山の視座を再考する――
はじめに
一 柳田の一休解釈
二 ふたつの「禅学」――久松真一から承けた枠組
三 「禅」そのものへの回帰
おわりに
補 論 「瞎驢辺滅却」をめぐって――一休と臨済禅への研究覚書
はじめに
一 臨済における「滅宗興宗」の精神はどう語られてきたか
二 「瞎驢辺滅却」と一休――『狂雲集』におけるその精神をさぐる
おわりに
終 章 禅門と世俗と一休の像――論のむすびとひらき
はじめに
「語る」一休と「語られる」一休とを探求すること
あとがき これまでとこれから――一休を通して「禅文化」をたずねるということ
索 引
関連情報
第1回東京大学而立賞受賞 (東京大学 2020年)
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/research/systems-data/n03_kankojosei.html
2022年度日本宗教学会賞 (日本宗教学会 2022年)
https://jpars.org/prize/award
書評:
何燕生 (郡山女子大学・武漢大学) 評 (『宗教研究』別冊96巻 2022年)
https://jpars.org/journal/bulletin/
「仏教・宗教関係書 今年の三冊」 (『仏教タイムズ』 2021年12月9・16日付合併号)
http://www.bukkyo-times.co.jp/
仏書・良書に親しむ 秋の読書特集2021 (『仏教タイムズ』 2021年10月21日)
http://www.bukkyo-times.co.jp/cn6/pg4025947.html
中外図書室 (『中外日報』 2021年10月15日)
https://www.chugainippoh.co.jp/
小川隆 評「「一休という現象」を多面的に分析――多くの人にとって切実な不可避の問いを論じる」 (『図書新聞』 第3531号 2022年2月19日)
http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/shinbun_list.php?shinbunno=3531