オレーシャ『羨望』草稿研究 人物造形の軌跡
作家になりたい、小説を書いてみたい、という夢を、少なからぬ人が1度は抱いたことがあるのではないだろうか。本書は、オデーサ出身の無名の文学青年だったユーリー・オレーシャ (1899-1960) が、初めての本格的小説『羨望』(1927) に挑み、ロシア革命後のソ連文壇に彗星のごとく現れるまでの軌跡を、1000葉を超える草稿を手がかりに追った著作である。
創作スタイルは作家によって実に様々である。オレーシャの場合は、最初に全体のストーリーの計画を立てておくことがなかった。数名の主要登場人物を作り、それらをめぐる断片的なシーンを思い浮かぶままに紙に書きとめることから小説作りを始めたのである。『羨望』の草稿は、そうしてできた無数のエピソードの集積から成っている。計画なしで書いているため、執筆過程でストーリーも登場人物の性格づけもどんどん変化していく。最初期の草稿では、『羨望』の主人公は変人の発明家イヴァン・バービチェフであり、彼の奇行を無個性な青年カヴァレーロフが語り手となって物語っていた。しかし、執筆が進むにつれ、オレーシャはカヴァレーロフに強烈な負の個性を次々に与えていった。その結果、カヴァレーロフは存在感においてイヴァン・バービチェフを凌駕するようになり、ついに小説の主人公になった。イヴァンの弟でソ連政府高官のアンドレイ・バービチェフ、美しいヒロインのヴァーリャ、模範的なソ連の若者ヴォロージャ、革命後に落ちぶれて料理女になった醜悪なアーニチカといった登場人物が、徐々に作品に加えられ、ますます多種多様なエピソードが生み出されていった。まさに、オレーシャの頭の中には無限のストーリーの可能性が広がっていたのである。そして、それらのエピソードのほとんどは公刊された『羨望』に入ることはなかった。
『羨望』草稿研究はロシアで1960年代に始まったが、現代に至るまで、その成果は部分的なものにとどまっていた。その理由は草稿の状態にあった。バラバラの紙片から成り、日付もほとんど記されていないため、執筆の時系列を特定することが困難だったのである。本書は、主要登場人物ごとに草稿を分類し、内容や文体等の類似性・近接性を手がかりに並べ直すことによって、それぞれの人物像がどのように生成していったのかを特定することを目指した。そして、人物造形の軌跡を手がかりに、『羨望』のストーリーが執筆の全期間でどのように移り変わっていったかを明らかにすることに成功した。
『羨望』によって華々しく作家デビューを果たしたオレーシャだったが、活躍できた期間はわずか10年だった。スターリン体制が確立し、作家に社会主義リアリズムの規範が課され、創作の自由が奪われていくなかで、オレーシャは「思想上疑わしい作家」と見なされ出版の機会を奪われてしまう。失意のうちに荒れた生活を送るようになったオレーシャは、『羨望』で発揮したあの無限の想像力さえ、いつしか枯渇させてしまった。ソ連社会に対するオレーシャの違和感は既に『羨望』にも表れていた。負の個性を与えられて主人公になったカヴァレーロフは、革命後の社会に適応できない「反社会」のアンチヒーローであり、思想上の「建て直し」を迫る「社会」との軋轢こそが、小説のメインテーマである。草稿の一葉一葉には、労働者が主人公のソ連社会への不適合をきたす知識人オレーシャの苦悩もまた、滲み出ている。
(紹介文執筆者: 古宮 路子 / 2022年6月20日)
本の目次
1.オレーシャの作家生涯と『羨望』
2.ストーリー概要
3.執筆の経過と草稿の特色
4.『羨望』草稿研究史
5.本書の課題
第1章 主人公と語り手
1.語りの形式の変更をめぐる問題
2.主人公イヴァン・バービチェフと語り手ズヴェズダーロフ (第1の時期)
3.主人公イヴァン・バービチェフと語り手カヴァレーロフ (第2の時期)
4.主人公カヴァレーロフとイヴァン・バービチェフ像 (第3の時期)
5.主人公カヴァレーロフと語り手の隣人 (第3の時期)
6.語りの形式の変更の背後にあるもの
第2章 格下げと主人公化――カヴァレーロフ
1.格下げの端緒
2.カヴァレーロフ像のさらなる変容
3.知識人オレーシャとカヴァレーロフ像
第3章 光と陰――アンドレイ・バービチェフ
1.敵役か「肯定的登場人物」か?
2.技術職の知識人
3.リーザ・キャメロンとの恋愛
4.父親像
5.リョーリャとの恋愛
6.ソーセージ屋
7.元ブルジョアへの妬み
第4章 「反社会的」発明家――イヴァン・バービチェフ
1.イメージソースとしての『透明人間』
2.しゃぼん玉の発明
3.無益な事物の職人
4.「イヴァン・バービチェフの物語」
5.夢物語に終わる発明
6.「反社会」幻想
第5章 「弱さ」の克服――ヴァーリャ
1.曖昧なヒロイン像
2.主人公イヴァン・バービチェフとリョーリャ
3.恋愛の導入 (リーザ・キャメロン)
4.美しさと「弱さ」(リョーリャ・タタリノヴァ)
5.ヴォロージャによる「啓蒙」(ヴァーリャ)
6.ヴァーリャ像の正体
第6章 「他者」の肯定性――ヴォロージャ・マカーロフ
1.ヴォロージャ像の肯定性
2.サッカー選手 (ヴォロージャ・バービチェフ)
3.コムソモール員
4.「啓蒙」の主体
5.人間機械
6.肯定的イメージの寄せ集め
第7章 格下げと女性像――アーニチカ・プロコポーヴィチ
1. 否定的女性像
2.場末の住環境
3.「不健康」な性愛 (エリザヴェータ・クーニナ)
4.アーニチカと父
5.私的領域の存在
結論
付録
参考文献
本書に関連する刊行済みの著作
あとがき
関連情報
第2回東京大学而立賞受賞 (東京大学 2021年)
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/research/systems-data/n03_kankojosei.html
著者コラム:
【今週の読物】▽著者から読者へ=『オレーシャ『羨望』草稿研究』 (『週刊読書人』 2022年3月25日号)
https://jinnet.dokushojin.com/products/2022%E5%B9%B43%E6%9C%8825%E6%97%A5%E5%8F%B7-3433%E5%8F%B7-%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%89%88
書評:
岩本和久 評「祝祭の痕跡をたどる――作品の生成過程を明らかにする学術書ではあるが、それは当時の文化を再構築する営みでもある」 (『図書新聞』第3539号 2022年4月16日)
http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/shinbun_list.php?shinbunno=3539
関連記事:
古宮路子「書き換えられた結末――オレーシャ『羨望』とポスト革命期ソ連の検閲 (日本ロシア文学会主催 若手ワークショップ:ポスト革命期ロシア文化のまなざし――革命から大テロルまで 2019年3月30日)
http://yaar.rgr.jp/robun/world_view_in_postrev_rus_clt.pdf
古宮路子 Ю.オレーシャ『羨望』における知識人像としての主人公の成立の問題 (『ロシア語ロシア文学研究』2016年48巻p.49-69 2016年10月15日)
https://doi.org/10.32278/yaar.48.0_49
[研究ノート] Ю. オレーシャ『羨望』の草稿研究 ―― カヴァレーロフとアンドレイ・バービチェフの出会いをめぐって ―― (『スラヴ研究』No. 63 2016年)
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/63/pdf/pp.111-131.pdf
投稿論文: 古宮路子「Yu.オレーシャ『羨望』の草稿における主人公と語り手の問題」 (『ロシア・東欧研究』2015巻44号p.56-69 2015年)
https://doi.org/10.5823/jarees.2015.56