本書は、在日朝鮮人作家・金石範 (キム・ソクポム、1925~ ) の『鴉の死』から『火山島』までの作品を対象に徹底したテクスト分析を行ない、金石範文学がどのような「日本語」と語りの方法を用い、「済州4・3事件」をめぐる死者と生者の声を紡ぎ出しているかについて考察し、金石範文学を読む新たな視座を提示したものである。
本書は『鴉の死』『万徳幽霊奇譚』『1945年夏』『火山島』などの1957年から1997年までの40年にわたる金石範文学を読解し、金石範という作者が用いる「日本語」は、日本語の表記における漢字やルビ、そして丸括弧を活用している点、日本語という言語体系の約束事を異化している点を明らかにした。もちろん、そうした技法は金石範文学だけに見られる独自のものではない。日本語と朝鮮語/在日朝鮮人の日本語交じりの朝鮮語との拮抗から生まれた在日朝鮮人の日本語文学によく見られる現象である。しかし、金石範文学に見られるその異化作用は物語世界や今現在の歴史性に深くかかわるものとして機能している点において区別されるべきである。また、金石範の表現における歴史性とは、8月15日 (1945年[日本の敗戦と朝鮮半島の解放]/1948年[大韓民国政府樹立]) 、4月3日 (1948年、済州4・3事件) 4月24日 (1948年、阪神教育闘争) 、5月18日 (1980年、光州民主化運動) といった日付が浮かび上がらせる歴史的時空間にかかわるものであったことも明らかにした。さらに、金石範はフィクションの世界で、死者の声と生者の声を紡ぐ巫女のような存在となり、沈黙や忘却を強いる権力に抗して語ることのできなかった死者をして語らしめ、生者をして押し殺しているものを語らしめる作者であることを示した上で、世界文学研究の言説を取り入れて金石範文学を世界文学として読む理論的な枠組みを可視化した。
金石範文学の最大のテーマは「済州4・3事件」であるが、それを直接経験していない金石範という作者によって、その記憶が日本語で書かれ、保持されてきたことの意味は重要である。つまり、ジェノサイドの時空間を逃れて、かつての宗主国へ密航せざるを得なかった者たちの引き裂かれた証言に直面した聞き手としての金石範が、数々の証言とそれに対する自分の記憶を定位し直しつつ、死者と生者の声を紡いでいく格闘の過程を日本語で書き記したということだ。本書は、こうした書く主体としての金石範の立ち位置を、小説の言葉に即して捉え返している。また、国語としての日本語や国文学としての日本文学という自明なものを揺さぶる金石範の「日本語」を考察し、日本語文学と世界文学という観点からの読みを示している点に本書の意義がある。
(紹介文執筆者: 趙 秀一 / 2022年7月29日)
本の目次
一 本書の目的
二 済州四・三事件
三 金石範という書き手
四 在日朝鮮人文学における金石範文学
五 ディアスポラ文学/日本語文学としての金石範文学
六 金石範文学の「日本語」
七 本書の構成
第一部 金石範文学のはじまり ―― 済州島三部作を読む
第一章 歴史を現前させる物語 ――「看守朴書房」(一九五七)
一 先行研究の検討と主人公の設定
二 主人公の移動に内在する歴史
三 「鍵束」と「白い手拭」
四 加筆部分と、「後家の趙」
結論
第二章 死者を弔うことば ――「鴉の死」(一九五七)
一 意識の「ひだ」を描く文体
二 変容する人物像
三 「鴉」の「死」を弔う「でんぼう爺い」
結論
第三章 主題を生成する語り手と読者との相互作用 ――「観徳亭」(一九六二)
一 冒頭における異化の語り
二 「でんぼう爺い」を表象する言葉
三 「らい病患者」という異人
四 〈異景〉を撮らせる主体を詰問する語り
結論
第二部 金石範の「日本語」が生み出す人間像を問う
第四章 知識青年の「敗北」と「糞まみれの自由」の意味 ――「糞と自由と」(一九六〇)
一 冒頭と、遅延される情報
二 差異化される主人公の人物像
三 龍白という鏡と「糞まみれの自由」
結論
第五章 在日朝鮮人「私」の想起の連鎖と、その意味 ――「虚夢譚」(一九六九)
一 混種の「はらわた」
二 現実との闘争としての夢
三 日本人ジャーナリストFの故郷
四 「触発」された「涙」の意味
結論
第六章 格闘することばの世界 ――「万徳幽霊奇譚」(一九七〇)
一 冒頭の構造
二 ことばの連鎖としての「翻訳」
三 「万徳」が体現するもの
結論
第三部 書くことの原点を問う ―― なぜ書かねばならなかったのか
第七章 主人公・金泰造の主体的移動と流動し続ける自己 ――『1945年夏』(一九七四)
一 一九七〇年代の日本社会と在日朝鮮人文学、『1945年夏』
二 「朝鮮語」という「故郷の自然」――「長靴 (ちょうか) 」
三 身体化している日本語と蘇る日本人としての自己 ――「故郷」
四 生成/反復する問い ――「彷徨」
五 〈八・一五〉を問い続けることの意味 ――「出発」
結論
第八章 読者の想像力に働きかける物語戦略 ――「遺された記憶」(一九七五)
一 語り手「私」の死
二 重層する〈遺された記憶〉
三 〈四・三〉に生み出された密航者
結論
第九章 記憶を定位し直す語りの仕組み ――「乳房のない女」(一九八一)
一 想起する語り手
二 想起の引き金と、証言に向き合うあり方
三 混じり合う声
四 定位し直される記憶
結論
第四部 『火山島』(一九七六 ―― 一九九七)の世界を読み直す
第一〇章 重層する語りの相互作用
一 語り手の位相
二 語り手のあり方と読者
三 李芳根と南承之との相関関係
結論
第一一章 「自由」を追い求めていた主人公・李芳根の「自殺」
一 「殺意」/反復の物語
二 「潜在的な殺意」と「間接的な殺人」の自覚
三 弁証法から生まれる李芳根の「自由」
四 「権力」からの「自由」
五 「一切の所有からの自由」としての「自殺」
結論
第一二章 歴史的時空間を越える物語の生命力
一 羅英鎬という人物と「精神的な清算」を促す声
二 空間の再現に企図された生者の役目
三 当事者の声で伝わる「四・二四阪神教育闘争」
四 人間の存在を問う物語
結論
終章 越境し交差する金石範文学の世界
一 〈八・一五〉と〈四・三〉を描く金石範文学
二 死者と生者の声を紡ぐ「巫女性」
三 金石範文学を読む方法論としての世界文学
参考文献
初出一覧
あとがき
関連情報
第2回東京大学而立賞受賞 (東京大学 2021年)
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/research/systems-data/n03_kankojosei.html
関連論文:
金石範「乳房のない女」論 ―― 記憶を定位し直す語りの仕組みを中心に (『言語態』17巻 p. 115-133 2018年)
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2004098#.YuNeCHbP2Uk
格闘することばの世界 ―― 金石範「万徳幽霊奇譚」を中心に (『言語態』15巻 p. 29-46 2016年)
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/2004084#.YuNep3bP2Uk