小説を読むという時、そのどこを読んでいるだろうか。もちろん文字を読むのだが、全ての文字が一様に心に残ることはないと思う (残ったらそれはそれですごい)。だからこう問い換えるべきかもしれない、好きな小説があるとして、そのどこが好きだろうか。キャラクターか、テーマか、筋か、描写か。私の場合は「声」だった。川端康成の小説で、人物の出す声が好きだった。中でもうめきや叫びなど、体から振り絞られる――振り絞る体の緊張をありありと伝える文字の連なり。作者が書いた (としか言いようのない、小説を構成している) 文字でも、人物が書いた (ことになっている手紙や日記の) 文字でもいい。それは時に宛先を逸れ、時に宛先不明のまま、間違いなく誰かに聞かれ、この私に読まれている。語られる内容も大事だけれど、それが心に残る時、語られ方や届き方から切り離せない気がしていた。
本書を編むプロセスは、こうした「好き」を見極めて、叫びでもうめきでもない言葉に練り直す営みだったと思う。2021年に提出した博士論文を元にしているが、その段階ではまだ、宛先の定まらなさという核心を捉えられていなかった。
もちろん、後に「声」と呼ぶものは、各作品論の原型となる論文でも取り上げていたし、それがなぜ重要かという理由づけもできていた。日本 (語) の小説は、西洋 (語) の小説へのコンプレックスとそれが転じたプライドのために、狭義の私小説に寄せて、つまり主人公と作家を重ねて読解されてきた。結果として主人公の心理を表すのではない部分、例えば他の人物の言動は、主人公が男性であり他の人物が女性であればなおさら、等閑視されることになる。日本近代文学の正典の一つに位置づけられた川端の場合はそれが顕著で、女性たちが語る言葉は、その容姿や象徴的な性格とは裏腹に、研究や批評においてほとんど論及されていない。それは、英語をはじめとする西洋語への翻訳で、女性の叫びや呼び声が訳し出されずにおかれたり、女性の手紙が多くを占めるパートが切り捨てられたりすることと軌を一にしている。美しい日本と女を描いた作家というイメージは、そのように偏った、敗戦後かつ冷戦下という史的文脈に規定された読み方の産物に過ぎない。
嘘ではない、本当である。昔も今も頭の底からそう考えている。けれど、自分で作った土俵に先行論を引きずり込んで、難癖をつけているような感じに襲われることがなくはなかった。刊行までの3年があったから、その感じに向き合って、正当化に埋もれつつある、自分を突き動かすものを掴めた。研究するということは、確かに自分が優れていると主張することを伴う。生計を立てようとすればいっそう。しかし、それだけではない。優劣や正否の物差しに乗らず、ただ存在していられる、こんな自分であることを肯定し肯定される瞬間も訪れる。そう身をもって知れたのが一番の成果だと思うし、この文章を読んでくれた皆さんにも知ってほしい。
(紹介文執筆者: 平井 裕香 / 2024年7月24日)
本の目次
序章 二つの「体」が交わるところ――川端文学の声
第一章 二重化する「私/僕」――「非常」と「処女作の祟り」
第二章 受け手としての作者――「十六歳の日記」
第三章 鏡としての「私」――「浅草紅団」
第四章 「彼」という空白――「禽獣」
第五章 鏡の中で響く声――「雪国」
第六章 焼かれることに抗う文字――「千羽鶴」と「波千鳥」
第七章 近づくことで嗅がれる匂い――「眠れる美女」
第八章 「欠視」がもたらす肌触り――「たんぽぽ」
終章 日本近現代文学の声
参考文献一覧
あとがき
関連情報
第4回東京大学而立賞受賞 (東京大学 2023年)
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/research/systems-data/n03_kankojosei.html
関連論文:
平井裕香「近さとしての曖昧さ――川端康成「眠れる美女」のリアリティの構成をめぐって」 (『言語情報科学』19巻 pp. 141-157 2021年)
https://doi.org/10.15083/0002000178
平井裕香「「欠視」がもたらす「肌ざはり」――川端康成「たんぽぽ」の文体と身体をめぐって」 (『比較文学』62巻 pp. 66-80 2020年)
https://doi.org/10.20613/hikaku.62.0_66
平井裕香「反転する「私」から鏡としての「私」へ――川端康成「浅草紅団」の方法」 (『言語情報科学』18巻 pp. 141-157 2020年)
https://doi.org/10.15083/00079655
平井裕香「主体の統一、主語の分裂――「非常」と「処女作の祟り」の方法」 (『言語態』18巻 pp. 107-121 2019年)
https://doi.org/10.15083/0002004103
平井裕香「応答する作者、応答としての読書――「十六歳の日記」における叙述の「写生」性 について」 (川端康成学会編『川端文学への視界34』pp.21-34 2019年)
平井裕香「鏡の中で響く声――川端康成『雪国』が求める女への応答の未完性」 (『昭和文学研究』79巻 pp. 85-98 2019年)
https://doi.org/10.50863/showabungaku.79.0_85
平井裕香「小説の問い、問いの小説――川端康成「波千鳥」における手紙の〈引用〉の効果について」 (『日本文学』67巻 pp. 38-49 2018年)
https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.67.9_38
平井裕香「川端康成「禽獣」の文体――「彼」という空白を中心に」 (『言語態』17巻 pp. 81-97 2018年)
https://doi.org/10.15083/0002004096