『マイケル・K』(1983)、『恥辱』(1999) などの小説で知られる南アフリカ共和国出身のノーベル賞作家J・M・クッツェー (1940 -) は、2002年、オーストラリアに移住するまで母校ケープタウン大学の文学教授を務めた学者、批評家でもあった。それも、著名になった小説家がゲスト的に大学に招聘されたのではなく、若いときから研究者としての修行を積み、大学で教え始めた後で小説を書き始め、それ以降も二足のわらじを履き続けたのである。日本では、彼の小説はほとんどすべて翻訳されているが、奇妙なことに、数多くある彼の評論はまったく無視されてきた。それらのほんの一部に過ぎないが代表的なものを選んで集めた本書が彼の学者、批評家としての側面の日本で初めての紹介となる。
クッツェーは今までのところ5冊の評論集を出している。そのうち『南アフリカの白人文学』(1988)、『岬を周航する』(1992)、『検閲論』(1996) は本格的な学術論文集で、脱構築批評を始めとするポストモダン思想との微妙な関係を特質としている。彼が研究を始めた1960年代は文学研究が構造主義以降の新潮流 (「理論」) によって大きく変貌を始めた時代であり、アメリカで学んだ彼もその洗礼を完全に受けている。しかし、南アフリカの緊迫した政治状況に直面し続けたこともあり、彼はそうした新潮流には一定の距離も感じざるを得なかった。この、ポストモダンと現実政治のせめぎ合いこそ、批評家クッツェーを読むときの一つのポイントとなるのだ。
1990年代半ば以降、批評家クッツェーはもっぱら学者というよりも書評家として活躍する。『見知らぬ岸辺』(2001) と『内部の作動』(2007) は『ニューヨーク・レヴュー・オヴ・ブックス』などに発表した書評が中心で、それぞれ二十六、二十一編が収められている。さまざまな言語文化に及ぶ多種多様な作家たち (主に20世紀) を、クッツェーは広大な学識を背景に薀蓄を傾けながら縦横に論じている。
本書は今日の「世界文学」をリードする彼の関心をなるべく反映するように、『南アフリカの白人文学』を除く4冊から、計14編を選んで訳出した。南アフリカという「周縁」出身の彼の思考には、植民地主義に対する批判はもちろん、世界文学が西洋の独占物になってきたことへの深い疑問がある。とりわけ、巻頭に掲げた「古典とは何か?」は、日本人が西洋の古典を読むときにも通じる問題意識が表われているので、学生諸君にぜひお勧めしたい。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 教授 田尻 芳樹 / 2016)
本の目次
サミュエル・ベケットとスタイルの誘惑
カフカ「巣穴」における時間、時制、アスペクト
告白と二重思考 -- トルストイ、ルソー、ドストエフスキー
検閲の闇を抜けて
エラスムス -- 狂気とライヴァル関係
デフォー『ロビンソン・クルーソー』
ローベルト・ムージルの『日記』
J・L・ボルヘスの『小説集』
ヨシフ・ブロツキーのエッセイ
ゴーディマとトゥルゲーネフ
ドリス・レッシング自伝
ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』
サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』
関連情報
中村和恵 評『BOOK asahi.com』 2016年02月14日掲載
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2016021400004.html