越境する中国文学 新たな冒険を求めて
本書は、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部の中国語中国文学研究室で三〇年にわたり教鞭をとられた藤井省三先生の退職を記念して、受講生たちが企画した記念論集である。
藤井省三先生の研究は、中国近代を代表する作家魯迅から始まった。日本における魯迅研究はそもそも厚い蓄積を持っていた。藤井先生にはその伝統を踏まえた上で、比較文学の側面から魯迅に新しい光をあてた。その最初の成果は『ロシアの影: 夏目漱石と魯迅』(平凡社) にまとめられている。従来の日本の魯迅研究では、中国の現実と苦闘する革命家としての側面が重視されていたが、藤井先生は比較文学の視野を導入し、詳細な文献調査をするとともに、魯迅の近代人としての側面を浮かび上がらせた。
魯迅研究で業績をあげた藤井先生は、さらに研究の幅を広げていった。まず文学研究に社会史的視野を組み込んだ。その成果として、魯迅の小説「故郷」がいかに読まれたかを歴史的に追跡した『魯迅「故郷」の読書史』(創文社) がある。また映画や流行文学にも視野を広げた。そして中国大陸にとどまらず、台湾文学の研究、さらに広く東アジアの近代文学を研究対象とした。魯迅を軸としながら、中国文学に関係すると思われる幅広い文学現象をほとんど網羅するように論じたと言えるだろう。『中国語圏文学史』(東京大学出版会) は、その研究成果の集大成である。
さて本書は四部構成になっているが、それはそのまま藤井先生の研究の軌跡と重なっている。第一部には魯迅および魯迅と同時代の中国大陸の文学についての研究論文が収められ、第二部には文学テクストを超えた文化研究の成果が収録され、第三部には台湾文学研究を始めとする東アジア近代文学の研究、第四部には映画や近年の流行文学についての研究が掲載されている。個々の論文は、執筆者それぞれの関心にしたがって書かれたものであり、必ずしも統一されてはいない。ただすべての執筆者が藤井先生のもとで研究をスタートさせ、それぞれの形で研究を進展させたことも間違いない。本書を通読すると、個々の論文の違いはあるものの、全体として、藤井先生の研究の広さと、そこからスタートした中国文学研究の方向性を感じ取ることができる。
藤井先生の退職は、日本の中国現代文学研究において、一つの時代の終焉だと言われる。本書を読めば藤井先生によって代表される一時代の研究の傾向がうかがえるだろう。それは研究の蓄積として、今後も参照されるものである。そしてそれはそのまま、次の時代の研究のスタートラインを示すものでもあるはずである。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 鈴木 将久 / 2018)
本の目次
I 魯迅と同時代人
根岸宗一郎 周作人とエフタリオーティス──背景としてのテオクリトス牧歌とギリシア神話
鄧捷 「意境」と「越境」──「いかに書くか」をめぐる魯迅と聞一多
大野公賀 李叔同の出家と断食
陳朝輝 芥川龍之介「支那趣味」の変容と解消──「妓女」の描き方から考察する
藤澤太郎 ある魯迅翻訳者の生涯──日本最初期の魯迅翻訳者鎌田政国について
白井澄世 瞿秋白『多余的話』について──「語り」と「時間」についての試論
鈴木将久 中華人民共和国建国前後の茅盾
II 文芸市場の成熟と文学空間の変容
清水賢一郎 近代中国におけるマスツーリズムの黎明──倹徳儲蓄会を中心として
高彩雯 民国期の「文学青年」イメージをめぐって──郁達夫と沈従文を中心に
王姿雯 日台比較文学研究による帝国・植民地一九三〇年代の記憶の調査──梶井基次郎を中心に
邵迎建 革命・戦争と女性──白薇『打出幽霊塔』と張愛玲『傾城之恋』
星野幸代 日本・中国・台湾文人の眼差しの中の舞踊家・崔承喜
西村正男 混淆・越境・オリエンタリズム──「玫瑰玫瑰我愛你 (Rose, Rose, I Love You)」の原曲とカヴァー・ヴァージョンをめぐって
III 文学の系譜をたどって
張文薫 台湾文学における魯迅──「孔乙己」と郭松棻「雪盲」
王俊文 日常を求める虚無僧──高橋和巳と竹内好・武田泰淳、及び吉川幸次郎
明田川聡士 一九七〇年代末台湾における皇民文学の再認識──陳火泉「道」の訳載を事例に
松崎寛子 鄭清文と児童文学──郷土におけるアイデンティティの創造と想像
張季琳 直木賞受賞までの邱永漢──「濁水渓」と「香港」を中心に
関詩珮 『漢』文『和』読法──香港淪陥、太平洋戦争、何紫児童文化事業中の日本の記憶 (六〇~九〇年代)
八木はるな 白先勇「一把青」の女性表象再考
張欣 龍應台作品における離散とポストメモリー
IV 加速する文学と映像の交渉
蓋曉星 中国映画における女子大生の宿舎文化──八〇年代以降を中心に
張瑶 「そっくりさん」映画の時代──中国語圏における岩井俊二『Love Letter』
徐子怡 中国村上チルドレン作家の成長──李修文の村上春樹受容を中心に
謝惠貞 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』論──巡礼の意味をめぐって
権慧 中国語訳・韓国語訳からみる村上春樹文学の受容──「ドライブ・マイ・カー」を中心に
楊冠穹 「八〇後」作家の映画製作進出と現代中国文化市場──郭敬明『小時代』と韓寒『後会無期』
あとがき──中国語圏文学三十三年の夢 (藤井省三)
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