
書籍名
災害と厄災の記憶を伝える 教育学は何ができるのか
判型など
352ページ、A5判
言語
日本語
発行年月日
2017年1月
ISBN コード
978-4-326-25120-9
出版社
勁草書房
出版社URL
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本書は、そのタイトルが示しているとおり、「災害と厄災の記憶を伝える」という課題に対して、教育や教育学が何をなしうるかを検討するものである。「災害と厄災の記憶を伝える」とはどういうことかを考えるとき、個人や社会に大きな被害をもたらした出来事に関する受け渡せるだけの情報を差し出すことで十分だと感じる人はいない。それだけでは何か大切なことが欠けていると、誰もが感じるはずだ。その「何か大切なもの」を探りつつ、伝承や伝達を主要な役割とする教育という営みに何ができるかを模索することに、本書の主たる関心は置かれている。
タイトルに「災害」と「厄災」を並べたことには理由がある。「災害」の教育ということで念頭に置いているのは、カタストロフィー前の教育 (防災・減災教育) とカタストロフィー後の教育 (災害後の対応に関する教育) である。ただ、カタストロフィーには、この語の定義からいっても、人間が対応することの限界を超える <どうしようもなさ> がつきまとう。「厄災」という言葉には、この人知を超えた巨大な力への畏怖や諦念も込められている。この <どうしようもなさ> となんとか居合わせようとする知恵と営みのうちには、教育とかかわる部分も含まれる。本書では、この部分を「厄災」の教育と呼んでいる。
執筆者の多くは教育哲学や教育人間学を専門とする研究者であるが、学校やミュージアムの教育現場でこの問題に取り組んできた専門家たちも寄稿している。本書に収められた各論考では、多様な主題――「世界市民」、「パトス」、「不幸」、「ミュージアム」、「防災・減災教育」「証言」、「記憶」、「想起」、「伝承」――が設定されている。念頭に置かれる事例も、東日本大震災、阪神・淡路大震災、広島の原爆投下、水俣病とさまざまだ。そのような内容の多様性にもかかわらず、すべての執筆者に共通しているのは、カタストロフィーについて考察することを通して、同時に教育とは何かを問い直していることである。
教育は基本的に上昇志向の営みだ。したがって、子どもたちを導く先が「喜び」であったり、「幸福」であったり、「上達」であったりと、明かな肯定性を帯びる場合には、そのような試みは教育の基本性質と相性がよい。災害および厄災というテーマに子どもたちの接近を促す場合はどうだろうか。そこには、「悲しみ」や「不幸」が、あるいは「上達」とは無縁の要素が、災害と厄災の教育に否応なく入り込んでくることがある。子どもたちを見守りながらその成長を促すはずの教育のうちに、しかもその根幹に近いところに、上昇志向に収めることのできない傾向を引き入れるという困難な課題に直面することになる。この課題はどのように克服されるのか。より多くの読者が本書を手にとって一緒に議論に参加されることを願っている。
(紹介文執筆者: 教育学研究科・教育学部 教授 山名 淳 / 2018)
本の目次
序章 災害と厄災の記憶に教育がふれるとき [山名 淳]
一 問題関心とキーワード
二 「厄災の教育学」の暫定的な地図
三 本書の構成と各章の概要
第I部 場所が語りだす記憶に耳を傾ける
第一章 <非在のエチカ> の生起する場所─水俣病の記憶誌のために [小野文生]
序─受難の記憶誌
一 孤独な魂のさまよい
二 絶対孤独が生み出す関係性
三 救うものと救われるものの相互照応
四 加害者への憐憫の情
五 対立構図からの転換と赦しの可能性
六 「悶え加勢」から問い直される共同性
七 水俣病における認定問題と潜在性─承認のポリティクス
八 「存在の現れ」の政治─グレイゾーンに向き合うこと
九 <非在のエチカ> のために─存在でも無でもなく
むすび─「もうひとつのこの世」の余白に
第二章 東日本大震災における教師の責任─ある保育所をめぐる裁判を事例として [田端健人]
一 記憶として何を伝えるべきか
二 選択の方法論─事例研究の学術的根拠づけ
三 東日本大震災による学校の被害状況
四 ある保育所の訴訟事例
五 争点
六 リーダーの <予見>
第三章 災害ミュージアムという記憶文化装置─震災の想起を促すメディア [阪本真由美]
一 地震と災害
二 震災の記憶とはなにか
三 災害の記憶のミュージアム「人と防災未来センター」
四 人と防災未来センターにおける災害の記憶の展示
五 災害ミュージアムの位置付けの変化
六 むすびにかえて─防災・減災への視座
第四章 広島のアンダース─哲学者の思考に内在する文化的記憶論と <不安の子ども> [山名 淳]
問題の所在─ <ヒロシマ> 論と <広島> 論の亀裂をめぐる問い
一 世界状況としての「ヒロシマ」と新たな「倫理的連帯」
二 広島の都市空間に対する違和感
三 把握しがたい「モノ」としての原子爆弾
四 「誤っていた回答」の寓話─アンダースによる広島論の基底
五 <不安の子ども> ─描かれざるアンダースの文化的記憶論
第II部 厄災を受けとめる思想の作法を探る
第五章 災害の社会的な記憶とは何か─出来事の <物語> を <語り‐聴く> ことの人間学的意味について [岡部美香]
問題の所在
一 出来事を想起する─いまここで過去の出来事を生きる
二 出来事の記憶を語ることは可能か
三 美的な営みとしての <語り‐聴く> こと
四 むすびにかえて
第六章 厄災に臨む方法としての「注意」─「不幸」の思想家との対話 [池田華子]
一 教育の立場から厄災について考える、ヴェイユとともに
二 「不幸」を語るヴェイユの言葉
三 方法としての「注意」、あるいは「不幸」の引き受け
四 受動=受苦の地平から
五 アナロジーを通じた「不幸」への応答
六 「不幸」をケアする─短いあとがき
第七章 学校で災害を語り継ぐこと─ <戸惑い> と向き合う教育の可能性 [諏訪清二]
一 語る意味
二 防災教育
三 語り継ぐ活動
四 若年層が語り継ぐ意味
第III部 次世代に伝える課題の重さを考える
第八章 それからの教育学─死者との関わりから見た教育思想への反省 [矢野智司]
一 戦争と震災、それからの思想
二 戦争と臨床的教育思想の誕生
三 戦争と国民教育学の誕生
四 敗戦の体験と戦後教育学の誕生
五 「それから」の「それ」に触れる教育思想
第九章 問いの螺旋へ─東日本大震災と教育哲学者の語りの作法 [井谷信彦]
一 本章の課題
二 故郷喪失と人間疎外
三 危機と希望に関する議論の「ねじれ」
四 議論の「ねじれ」と問いの螺旋
五 本章の帰結
第一〇章 カタストロフィーと教育学─いまだ明らかにされていない両者の関係性をめぐって [ローター・ヴィガー / 山名 淳 訳]
問題の所在
一 カタストロフィーの定義
二 日常用語としての「カタストロフィー」
三 さまざまなカタストロフィーの種類
四 カタストロフィー教育か、それともカタストロフィーの教育学か
終章 厄災ミュージアムの建築プラン─記憶し物語り伝達し公共的に活動する場を目指して [矢野智司]
一 災害ではなく厄災という主題
二 公共の場としての厄災ミュージアム
三 モノと物語の厄災ミュージアム
四 破局に抗する世界市民を形成する場としての厄災ミュージアム
おわりに [山名 淳・矢野智司]
索引
関連情報
李舜志「「山名淳・矢野智司編『災害と厄災の記憶を伝える――教育学は何ができるのか』」東京大学大学院教育学研究科基礎教育学コース編『研究室紀要』44、2018年
西村拓生「「山名淳・矢野智司編『災害と厄災の記憶を伝える――教育学は何ができるのか』」関西教育学会編『』18,2018年
図書紹介:
今井康雄「山名淳・矢野智司編『災害と厄災の記憶を伝える――教育学は何ができるのか』」『教育学研究』84(4)、2017年
自著紹介:
山名淳「『災害と厄災の記憶を伝える――教育学は何ができるのか』」『近代教育フォーラム』27、2018年
【関連記事】
佐藤卓己「論考2017 6年後の3.11」『京都新聞』2017年3月17日付