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白い表紙に波線の模様

書籍名

講義 日本文学 〈共同性〉からの視界

判型など

256ページ、A5判

言語

日本語

発行年月日

2021年3月26日

ISBN コード

978-4-13-082046-2

出版社

東京大学出版会

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講義 日本文学

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国文学研究室では、毎年後期に、教員全員が一つのテーマについて輪講し、最後にシンポジウムを行ってまとめとする授業、「総合日本文学」を開講している。本書は、その初年度、「共同性」をめぐっての講義の原稿に手を入れ、最後に座談会 (当時はまだシンポジウムが無かった) の記録を付して出来上がったものである。
 
設定されるテーマには、飛鳥・奈良時代から現在に至るまでの国文学史に共通する問題が選ばれる。「共同性」もまた、そうした主題である。文学は、基本的に文字で書かれた文章であり、それを記すのは、きわめて個人的で孤独な作業のように見える。しかし文章は読まれて初めて意味を持つものでもあって、集団の中にいることを前提にして、個なり孤なりがありうるのだとも言える。従来、ともすれば、作者の表現意図ばかりに重きが置かれていた研究は、読者や、それを含む集団にも目を向けなければならない。
 
そうした問題意識のもと、本書は三つの視点から日本文学を論じている。一つ目は作者と集団の関係である。例えば、紫式部は、日記の中で深々とした孤心と自己凝視を語っているが、それは頑なに閉ざされたものではなく、人間的な連帯性への内的な激しさを秘めるものであった (第2講)。そして彼女の書く巨大な物語は、既存の物語を貪欲に取り込みながら成長していったと目され、制作の現場は女房たちの集団をも巻き込むものだったらしい。しかしそうした共同体の産物としての物語を基盤として、監修的な立場にあった紫式部は、漢籍や歴史に精通したその個を、存分に発揮させたのである (第3講)。
 
第二の視点は、読者と作者との往還関係についてである。例えば、近代文学では、前近代とは比較にならない数の読者が発生する。しかしその読者たちは密室で個別に黙読するのであり、作者はその一人一人と密な関係を作らねばならない。作家は個別のセルフイメージを作って、それを読者たちに普遍的に理解させようとする。更に作家たちは「文壇」やグループを作り、集団的にそれぞれの役割を演じ合うのである (第8講)。
 
第三の視点は、〈共同性〉は創出されるということである。中世の無常観は、個別の存在を超えて長い時間の多くの人々との連帯を創り出す。そこでは、個性的な表現であればあるほど、共感する人を惹きつけるのである (第10講)。また松尾芭蕉の俳諧では、連句を巻く「座」の人々によって〈共同性〉が形作られてゆく。それはその場限りのものであって、書きとめられた連句は形骸でしかない。しかしその後、芭蕉の「個」はそれを母体に『奥の細道』のような私小説的な紀行文を為すのである (第11講)。
 
以上のように、本書では、日本文学における個と集団との間に働くダイナミズムが縦横に論じられている。特に学生諸君にぜひ一読してもらいたい。
 

(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 鉄野 昌弘 / 2021)

本の目次

はじめに―なぜ〈共同性〉を問題にするのか 渡部泰明
 
I 作者はどこにいるか
 第1講 歌謡の仕組み―雄略記を読む (1)  鉄野昌弘
 第2講 紫式部の孤心―『紫式部日記』を読む  藤原克己
 第3講 作者は一人か―和歌や物語の制作の場  高木和子
 第4講 個性が生まれるとき―西行と藤原俊成  渡部泰明
 
II 読者との往還
 第5講 源氏物語と漢文学―漢詩文の引用と〈共同性〉  藤原克己
 第6講 平安時代の和歌―言葉と〈共同性〉  高木和子
 第7講 浪人の連帯感―『西鶴諸国ばなし』に見る〈共同性〉  長島弘明
 第8講 テクストの中の“文壇“  安藤 宏
 
III 創出される〈共同性〉
 第9講 歌うことと書くこと―雄略記を読む (2)  鉄野昌弘
 第10講 無常観が生みだすもの―方丈記と徒然草  渡部泰明
 第11講 「座」から切り離された発句―『奥の細道』と連句の〈共同性〉  長島弘明
 第12講 演技する「小説家」―志賀直哉『城の崎にて』を中心に  安藤 宏
 
総合討議 日本文学と〈共同性〉 渡部泰明・安藤 宏・長島弘明・藤原克己・高木和子・鉄野昌弘
あとがき 長島弘明
執筆者紹介
 

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