愛国心にもとづくナショナリズム運動について、深く考えてみたくて、この本を書きました。
ボイコットは、近代中国のナショナリズム運動の中でしばしば採用された方法です。例えば、1915年に日本が中国に対して「21か条の要求」を行ったとき、中国の国民が一丸となって日本の商品を買わないことで、日本政府に対する圧力にしようとする運動がありました。このようにボイコット運動の多くは外交上の懸案が理由となって始まりました。
しかし、ボイコット運動には、不思議な点があります。国民一丸となって進められるはずなのに、激しく展開される地域と盛りあがりに欠ける地域との相違が時々見られるのです。また、ボイコットは主に日中の貿易に大きな影響を与えるのは当然ですが、実際に日本政府に対する圧力となって外交懸案を解決するに至った事例は少ないということも、気になります。
世間に流布する大まかな説明によれば、多くの国民が愛国心を共有していて、その感情に基づいてボイコット運動が盛り上がったということになるでしょう。本書の考えは、これとは少し異なります。人々の利害関心は立場によって異なっていると考えるのが、この本の前提です。日本人なら日本人、中国人なら中国人として一丸となっているはずだというナショナリズムの理念は、しょせん理念にすぎないと言いたいのです。
もう一つ重要なのは、人々は様々に異なる立場にあっても、愛国の宣伝を巧みに自分のために利用しながら自己の利益を図ったり自己実現したりしようとした点です。たとえば、東南アジア華僑の実業家は日本企業の活動を牽制するために、ボイコット運動を利用しようとしました。また、中国の学生たちは、自分たちこそが真に愛国の運動を実現する立派な存在だということを示そうとして、日本製品を輸入する中国人商人を攻撃しました。五四運動の時に上海の労働者がボイコットに参加しようとしたのは、自分たちも愛国の情熱をもった一つの社会層だと承認してほしいという願望に基づいていました。
このような実情は、ときに地域的な相違があるので、ボイコット運動も全国一様に推進されたわけではないのです。また、人々がボイコット運動からそれぞれ別のものを得ていたとすれば、ボイコット運動が外交的な懸案を解決する力をあまり持たなかったとしても、無意味だったとは言えません。
とはいえ、愛国の大切さを訴える言葉は、多様な人々によって用いられることでますます力を得ていったという側面も忘れることができません。ついには、人々の利害や立場は必ずしも国籍ごとに分類できないということすら、見えにくくしていったのです。
当初のナショナリズムは一種の虚構だったかもしれません。しかし、「嘘から出たまこと」という格言のように、次第に実際の人々の発想と行動を規制する力を発揮するようになったのでしょう。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 吉澤 誠一郎 / 2022)
本の目次
1 はじめに
2 主要な先行研究とその問題意識
3 工業発展か、外交懸案か
4 運動の担い手
5 愛国運動の地域的偏差
6 本書の構成と日中関係史の視点
7 中国におけるボイコット運動の起源
第1章 第二辰丸事件とその地域的背景
1 はじめに
2 事件の端緒と運動の展開
3 領海の問題
4 治安と武器密輸の問題
5 革命派の動向
6 小 結
第2章 東南アジア華僑による民国初年の対日ボイコット
1 はじめに
2 運動の発端
3 ボイコットの背景と動機
4 マニラの状況
5 孫文の電報と運動の終幕
6 小 結
第3章 懐疑される愛国心――中華民国四年の排日運動をめぐって
1 はじめに
2 二十一か条要求をめぐる外交交渉
3 中国における反対運動の展開
4 救国儲金という運動形態
5 愛国運動を総括する
6 愛国と厭世
7 小 結
第4章 五四運動における暴力と正義
1 はじめに
2 運動の初発
3 学生と政権
4 五月四日事件における暴力と法治
5 小 結
第5章 上海五四運動における工界の位置
1 はじめに
2 上海における運動の発端
3 上海における罷市の開始
4 上海における罷工の開始
5 工界という概念の流布
6 工界の組織化の試み
7 小 結
第6章 旅順・大連回収運動
1 はじめに
2 二十一か条無効の提起から経済絶交運動へ
3 武漢での展開
4 長沙での展開
5 現地日本人の激昂
6 小 結
第7章 五四と五卅のあいだ
1 はじめに
2 工部局と上海の五四運動
3 五卅事件の発生
4 共同租界の条例をめぐる論争
5 五卅運動の要求事項
6 小 結
終 章 ボイコット運動の歴史的位相
1 ナショナリズムと大衆運動
2 ボイコットと日中貿易
3 比較の視点
註
あとがき
文献一覧
図表一覧
索 引
関連情報
今井就稔 評 (『社会経済史学』第88巻第3号 2022年11月)
http://sehs.ssoj.info/?cat=46
熊本史雄 評 (『現代中国』第96号 p. 176 2022年9月)
https://www.unp.or.jp/syohyo2022#22101105
櫻井良樹 評 (『東アジア近代史』第26号 p. 154 2022年6月)
https://www.unp.or.jp/syohyo2022#220810
小野寺史郎 評 (『図書新聞』第3537号 第4面 2022年4月2日)
https://www.unp.or.jp/syohyo2022#22050601
[好書好日]阿古智子 評 (朝日新聞 2022年2月26日)
https://book.asahi.com/article/14557817
あとがき (抜粋):
「ナショナリズムだけではない 近代中国のボイコットからみえるものとは」 (ALL REVIEWS 2021年12月22日)
https://allreviews.jp/review/5719