日本語の「文学」という言葉はきわめて厄介な表現である。詩や小説といった言語芸術を意味することもあれば、学問分野としての文学研究を意味することもある。当然ながら、ほかの時代や地域に目を向けてみると、その射程はさらに広がり、かつ複雑なものとなっている。今世紀に入ってから、流通・翻訳・生産という観点から「世界文学」を提唱したのはアメリカの文学者デイヴィッド・ダムロッシュであるが、その議論は英語を媒介にした文脈で成り立っており、様々な問題点も指摘されている。
そのような中、様々な文学を日本語の文脈で描き出そうとしたのが、本書『地球の文学』である。「地球全体の響きのイメージ」を表出することを念頭に編纂された本書は、「I〈翻訳〉が挑発するもの〉」「II〈モダニズム〉の肖像」「III〈詩〉のアクチュアリティ」「IV〈政治〉の力学のなかで」「V〈歴史〉のなかでの受容と変容」という5部構成からなり、26篇のエッセイが収録されている。
本書が「世界文学」ではなく、「地球の文学」と命名された背景には、『地球の音楽』の続編にあたるという事情があるほか、「翻訳される以前のそれぞれ異なる言語の中で、文学テクストがどのような姿をとり、どのように自らの文化・社会の中で生きているのか描き出されている」(山口裕之「あとがき」)、つまり、一つにまとまった「世界文学」ではなく、それぞれの地域に点在する文学の集積という含意が込められている。もちろん、個々の文学は孤立しているわけではなく、「翻訳」を通して共鳴したり、「政治」や「歴史」の流れのなかで他の文学と接触している。その様相が、26人の執筆者の視点から立体的に描き出されている。
文学に関する本というと、作家や作品を紹介、解説するという図式を想起するかもしれないが、本書は、それぞれのアプローチそのものが魅力的である。いくつか具体例を挙げると、くぼたのぞみは「アフリカン」という表現の重層性を浮かび上がらせ、久野量一はコロンビア出身の作家バスケスの原書と翻訳の書影の相違を指摘し、コースィット・ティップティエンポンはタイにおける男性同性愛小説の潮流を紹介する。このように、それぞれの地域の社会、歴史、政治状況に触れつつ、作家や作品の位相を巧みに提示するアプローチは、文学研究の奥深さと多様性を示す一例となっている。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 阿部 賢一 / 2025)
本の目次
I〈翻訳〉が挑発するもの
フランス語圏文学 『失われた時を求めて』の「壁」
──プルーストの翻訳から日本文学へ 荒原邦博
チェコ語文学 チャペック『ロボット』における複数言語使用 阿部賢一
ラテンアメリカ文学 『歌、燃えあがる炎のために』を読んで、 翻訳をして、
本ができあがっていくまでのあいだに考えてきたこと 久野量一
ブラジル文学 翻訳の力、 文学の力
──人生観を変えた一冊『ブラス・クーバスの死後の回想』 武田千香
日本語文学 大移動時代の日本語文学の再編成 邵丹
アフリカ発/系文学 たったひとりでことばの荒野に立ち、
たったひとりでことばの泉を飲む
──アフリカ発/アフリカ系の文学を訳して くぼたのぞみ
II〈モダニズム〉の肖像
ポーランド語文学 シマノフスキの《神話》、
イヴァシュキェーヴィチの『ザルーヂェ』 関口時正
アメリカ文学 ウィリアム・フォークナーと現代
──神話的アメリカ南部の周縁性と普遍性 加藤雄二
ラテンアメリカ文学 旅する驚異 アレホ・カルペンティエール 柳原孝敦
タイ語文学 「Y小説」の誕生
──タイにおける性的多様性受容への転換点 コースィット・ティップティエンポン
III〈詩〉のアクチュアリティ
ロシア語文学 ロシア詩の地層──アレクサンドル・プーシキンをめぐって 前田和泉
ベンガル文学 同じであって同じでない──ベンガル文学の場合 丹羽京子
サンスクリット文学 知的快感を楽しむ──カーヴィヤ文学の世界 水野善文
ペルシア古典文学 ルーミー著『精神的マスナヴィー』より「葦の嘆き」 佐々木あや乃
カンボジア文学 カンボジアはメコン川の賜物――水とともに紡がれる物語 岡田知子
IV〈政治〉の力学のなかで
ロシア語文学 初期ソ連の「映画的」偽翻訳文学
──マリエッタ・シャギニャン『メス・メンド』を中心に 古宮路子
アラブ文学 ナギーブ・マフフーズ、 アラブ近代小説の成熟 八木久美子
中国語文学 〈文の学〉は異人の声のほうへ
──中国大陸の言語作品が地球の生命を聴く 橋本雄一
韓国・朝鮮文学 韓国社会と文学の距離
──記憶の忘却に抗うナラティブ 吉良佳奈江
チベット語文学 危機を乗り越える文学
──チベット語現代文学の創成とその背景 星 泉
V〈歴史〉のなかでの受容と変容
イタリア語文学 変化する心
──イタリアと日本におけるデ・アミーチス 小久保真理江
バスク語文学 バスク語文学の挑戦
──少数言語で書くことが当たり前になるまで 金子奈美
アラブ文学 アラブ文学とは何か 山本 薫
ベトナム文学 『翹伝』とその心 野平宗弘
ドイツ語文学 主観性の表現をめぐって 山口裕之
サバルタン文学 ガルシア=ロルカの群島
──スペイン、アイルランド、琉球におけるサバルタンな声の響鳴体 今福龍太
あとがき 山口裕之
関連情報
山口裕之「文学が生きている場所」 (東京外国語大学出版会 | TUFS PRESS | note 2026年1月29日)
https://note.com/tufspress/n/ne9ee1934e575
書評:
亜娥歩 評「近着の図書紹介」 (『国際貿易』 2025年5月13日号)
https://japit.or.jp/newspaper/3.html
沼野恭子 評「多彩な文学を紹介する珠玉の一冊【沼野恭子×リアルワールド】」 (『オーヴォ』 2025年5月31日)
https://ovo.kyodo.co.jp/
瀧井朝世〔BOOK〕世界各地の文学を読みほどくエッセイ集。 (『クロワッサン』No.1145 2025年7月9日)
https://croissant-online.jp/life/249386/
イベント:
[東京外国語大学]出版会×図書館企画:出版記念ブックトーク『地球の文学』 (東京外国語大学附属図書館、東京外国語大学出版会 2025年6月20日)
https://wp.tufs.ac.jp/tufspress/topics/topics20250613/
【記録映像】(東京外国語大学 公式 TUFS Channel | YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=llK6IEU_fhM
出版記念「さまざまな言語のなかで生きている文学の姿」展 (東京外国語大学附属図書館、東京外国語大学出版会 2025年6月16日~6月26日)
https://wp.tufs.ac.jp/tufspress/topics/topics20250613/

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