指導者プーチンとロシアの歴史
今年2月に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、今なお先行きが見えません。ロシアのプーチン政権、そして長引くロシア・ウクライナ戦争の背後にある歴史観とはどのようなものなのでしょうか。近現代ロシア史を専門とする、人文社会系研究科の池田嘉郎准教授に、統治構造や体制の違いを越えたロシアの政治文化について聞きました。
―― ロシア史研究者として、今回の戦争をどうご覧になっていますか?
このたびの戦争は、プーチン大統領が自分の歴史観を前面に押し出して始めたもので、その点で歴史と非常に関わりの深い戦争であるといえます。プーチンの考えは、ウクライナは広い意味でのロシア世界の一部であって、それを取り戻すだけだというものですが、帝政ロシア・ソ連の歴史や歴代の指導者たちの考えをふり返ると、彼の発言は単なる方便ではなく、この戦争が、歴史の中で積み重なってきたいろいろな動機を背負ったものであることがわかります。
今回の戦争には、ロシアでもおよそ20%の人々が反対していると言われていますが、個々の指導者から切り離された客体としての国家が不在ともいえるロシアにおいて、自律的な市民社会が戦争を阻止するまでには至りませんでした。法治より人治が優先されてきたロシアの政治文化においては、強い指導者のもとで過去の歴史が利用され、現在の政治と直結させられる傾向があるのです。
どの時代が専門であれ歴史研究者は、今回の戦争を、ロシアの歴史の断面が丸ごとむき出しになった出来事として理解し、向き合う必要があると思っています。
変容するロシアとウクライナの関係
―― ロシアとウクライナはどのような関係にあったのでしょうか?
帝政時代からソ連時代、そしてソ連解体後も、ロシアには100以上の民族が暮らしていますが、その中でもウクライナはロシア人にとって最も関係が深い存在です。
歴史をさかのぼると、9世紀にルーシと呼ばれる古代ロシア国家ができた当時、現在のウクライナの首都であるキエフ(キーウ)はその中心地の一つでしたが、その頃はロシア人もウクライナ人もまだ分化していませんでした。その後モンゴル帝国の支配をへて、ロシア地域とウクライナ地域に分かれるようになり、さらにウクライナ地域はポーランドの支配下に入ります。そして17~18世紀にロシア国家が大きくなってくると、ポーランドを圧迫してウクライナ地域をロシアに併合していきました。
「ウクライナ」という地名は、ルーシから13世紀に分離した後、16世紀前後にできます。この語は一つは「くに」や故郷、もう一つは地方、辺境という二つの意味をもっています。ウクライナ人はもちろん「くに」の意味でとらえていますが、ロシア人は「辺境」と見なし、自国の辺境の一地方だととらえてきました。ロシア帝国の時代には、ウクライナという地名やウクライナ人というまとまりは公式の単位としては認められておらず、ウクライナ語も、ロシア語の一方言として扱われていました。
―― 19世紀以降、ロシアとウクライナの関係はどのように変化したのでしょうか?
19世紀後半から20世紀初め、国民国家の時代になると、ロシアのような多民族帝国はうまくいかなくなります。イギリス、フランス、ドイツ、それに日本などでは、身分制の意義が相対的に弱まり、国家に属する意識をもつ国民であれば能力次第で誰でも活躍できる時代になり、軍事的にも工業的にも発展していきます。これに対し巨大なロシア帝国では、強固な身分制のもとで身分や民族ごとに役割や立場が決まっており、それらバラバラな諸身分や民族を皇帝が統合していました。近代国民概念を取り入れることができなかったロシアは、20世紀に入ると日露戦争で敗れます。
その後、ロシア革命を経て建設されたソ連は連邦制をとり、ウクライナ、ベラルーシなどそれぞれの民族が国をつくることを認めた上で、上部機関としてソビエト連邦を設けて統合しました。ソ連時代の70年の間に、共産党の支配という前提のもとではありますが、ソ連市民という意識と両立する形で、たとえばウクライナ人といった民族意識が育つようになりました。身分を越えた一体的なロシア人意識が育つのもソ連時代です。ただ、ロシア人は「諸民族の長兄」と位置づけられたので、ソ連全体を主導しているという自意識も強かったのです。
そのソ連が解体してお互いが独立した国家となると、関係が変化していきます。ロシアとウクライナの指導者たちは、当初は共産党支配や社会主義体制から脱して新生したいというモチベーションを共有しており、両国の関係は悪くはありませんでした。ところが、21世紀に入り、プーチンの権威主義体制が強まると、ウクライナの指導者がロシアから距離を取ってEUに接近するようになり、関係が悪化します。
強国ロシアの再建と歴史の利用
―― プーチン政権は自らの正当性を主張するためになぜ歴史を利用しているのでしょうか。それはどのようなものでしょうか?
個人を離れた制度による統治や法の支配が根づいていないロシアでは、皇帝、書記長、大統領といった最高指導者に権力が集まる傾向が一貫してあります。このため、支配を正当化したり国民に訴えかける手段の一つとして、常に歴史が過去から引っぱり出されて利用されてきました。今回の戦争では、先に述べた「ウクライナは広い意味でのロシア世界の一部だ」という歴史観と、「第二次世界大戦でロシアはナチスと戦って勝利した。ウクライナはそのナチスに支配されている」という認識が持ち出されています。
そもそもロシアの君主や指導者たちには、ともすれば西方からの牽引力が働いてウクライナを取られるのではないかという意識が常にあり、ウクライナが自律性を高めることを警戒してきました。プーチンは、歴代の指導者たちのそのような意識を踏まえて、「ヨーロッパやアメリカは常にロシアが大国になることを恐れ、手先を送り込んで革命を起こそうとしてきた。しかしロシアはそのたびに立ち直り、悲劇を乗り越えてきた」という見方で、この戦争とその背景の構図を説明しようとしています。
その際に持ち出される戦勝史観が強調されるようになるのは、ソ連時代の1960年代後半からです。社会主義路線が経済の低迷で人々をひきつけられなくなると、「ロシアは大きな犠牲を払ってナチスを倒し、世界を救った」という説明が、政府と国民が共有できる数少ないナラティブとなります。1952年生まれのプーチンは、まさにこのような戦勝史観に触れて育った世代に当たります。
ソ連解体後の1990年代は、いったんソ連時代の歴史は全否定されましたし、財政も逼迫していたので、当時のエリツィン政権は自国の歴史をどう語るかということには力を入れていませんでした。しかし2000年にプーチンが大統領になると、それまでとは対照的に、ロシア国家を立て直すとともにそれを支える歴史観も立て直そうとする姿勢を強く打ち出し、そのような歴史観を国民に対して発信するようになります。ロシア帝国またソ連全体を主導してきたのはロシア人だ、という見方もあらためて強調されるようになります。
―― 指導者の歴史観はどのような方法で国民に向けて発信されてきたのでしょうか?
指導者の歴史観を広く国民に浸透させるための手段は、財源と人脈、教育のネットワークに支えられています。
プーチン政権2期目(2004~2008年)に石油価格の上昇で中央政府に財源ができると、「我々の偉大な国家ロシア」という歴史観を強く打ち出し、それを広めるための教育ネットワークが幅広く構築されました。ソ連時代からあった学外啓蒙団体「知識(ズナーニエ)」を2010年代後半に再編し、学校にインストラクターを送り込んだり、歴史関係のコンクールを開催したりするなどしています。教科書も国定教科書に近いものになり、全国の学童が訪れる歴史博物館にも指導者の歴史観が反映されています。そのような中で戦勝史観が国民を統合する共通の記憶として再び用いられ、戦勝記念の軍事パレードも復活しました。
この先プーチンが何らかの形でいなくなった時も、多かれ少なかれ強力なリーダーが出てくるだろうと思います。そのような、歴史と一体化した強い指導者による統治という、ロシアの政治文化を理解する必要があります。また、戦争を支持する80%の人々、戦争に反対する20%の人々、いずれもロシアの現実であり、ロシア史の一部です。彼らの姿を見つめ続けていかなければならないと、自分は思っています。
過去がそのまま現在とつながっている今回の戦争では、現状がすでに歴史の一部といえます。そうした「歴史としての現状」を考える際に、個々人の記録や事跡をたどり、一人ひとりの境遇や思いに焦点を当てる歴史学、ひいては人文学が果たせる役割は大きいと思っています。
池田嘉郎
人文社会系研究科准教授
東京大学大学院人文社会系研究科修了、文学博士。東京理科大学准教授を経て、2013年より現職。著書に『革命ロシアの共和国とネイション』(2007年、山川出版社)、『ロシア革命 破局の8か月』(2017年、岩波書店)、訳書に『プーチンと甦るロシア』(ミヒャエル・シュテュルマー著、2009年、白水社)などがある。