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世界三大美人言説から見えてくる人々の「認識」の作られ方 小野小町は本当に美人だったのか

掲載日:2019年3月7日

幕末から明治初期にかけて活躍した絵師、菊池容斎によってまとめられた伝記集『前賢故実』巻第四より、小野小町の略伝と肖像。『前賢故実』は古代から中世までの偉人の伝記を一覧にしたもので、特に絵は歴史上の人物の近代以降のイメージ形成に大きな影響を与えた。国会図書館デジタルコレクションより

クレオパトラ、楊貴妃、小野小町。日本では、この3人の女性が主に「世界三大美人」として知られています。

なぜ、時代も国も異なるこれら歴史上の人物が、一括りにされ、しかも特に「美人」として知られるようになったのでしょうか?

総合文化研究科の永井久美子准教授は、荒唐無稽にも見えかねない美人言説のルーツやその推移を研究しています。調べてみると、人々の「認識」はその時々の時代背景や大衆文化に大きく影響されてきたことが分かるといいます。 平安時代の絵巻物の研究が専門の永井先生が近代以降の言説に対する興味を深めたきっかけの一つは、学部1年生向けの授業で、偉人伝を読み分析するという課題を出したこと。歴史上の人物のイメージとして特に学生の間に近年定着していたのは、絵巻や本格的な伝記よりもむしろ、テレビなどで流れる必ずしも裏の取れていない情報や、ゲームやアニメ用にアレンジされた人物像でした。

「絵巻物で長年培われてきたイメージがどう現代に引き継がれているのか、というところに興味を持ちました」と話す永井先生。

「小町はいったいどんな人だったのだろう、という素朴な疑問を、小さい頃から抱いていました。中学生のときには、平安時代ならきっと美人だった、と自分が言われたことがきっかけで、日本の貴族の審美眼に対する関心を深めました。やがて、人物にまつわる伝説が増幅される歴史や、人々の美意識の変遷について、自分の容姿云々を差し引いても真面目に考えてみたくなってゆきました」。

また、「源氏物語絵巻」の原本を初めて見たときに、永井先生は美しいと直感的に感じたそうですが、そこで感じた美的感覚は現代の感覚と違うのだろうか、と疑問に感じたとも話します。

紀元前1世紀頃に作られたと推定される古代エジプト女王のクレオパトラ7世の頭部彫刻(ベルリン美術館所蔵)と
江戸後期の画家高久靄崖(たかくあいがい)による中国唐代皇妃の楊貴妃図(静嘉堂文庫美術館蔵)。Wikimedia Commons

小野小町が美人だったという伝説は古くからありましたが、クレオパトラや楊貴妃とともに三大美人としてメディアに登場するようになったのは明治中期から。例えば、明治21年(1888)7月20日付の読売新聞の社説「流行論その4 美醜判断の困難」は、クレオパトラ、楊貴妃、小町の名が並べられた比較的早い例の一つです。明治、大正期の新聞・雑誌類には、多数の女性論が掲載され、海外の女性たちとともに、小町の名が繰り返し登場しました。読売の社説には、容姿をめぐる価値観は多様で、美人の誉れ高い小町たちのことを、それほどでもないと思う人もいるだろう、といったことが書かれています。

国風文化の代表としての小町

世界三大美人言説が生まれた明治中期は、日本が欧米列強に対抗し、日清・日露戦争に向かいつつあった頃。国内でナショナリズムが高まる中、和歌の名手であった小野小町は、平安時代中期以降の「国風文化」を代表する文化人として理想的な存在だったのではないか、と永井先生は分析します。

一方、古代エジプト女王のクレオパトラが三大美人として挙げられた背景には、1910年代、女優の松井須磨子が帝国劇場でクレオパトラ役を演じた舞台が人気を博したことや、浅草で無声映画「アントニーとクレオパトラ」が上演されたことが影響しているのでは、と永井先生。

興味深いのは、三人の女性はいずれも晩年は悲劇的な最期を迎えたとされていること。

「小町には、美しかったけれども晩年には老いさらばえて地方を放浪していた、という伝説があり、悲劇の女性という意味で、(中国唐代の玄宗に寵愛されるも最期は殺害された)楊貴妃や(自殺した)クレオパトラと並べやすかったとも考えられます」。

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1914年に浅草の常設映画館「電気館」で上演された無声映画「アントニーとクレオパトラ」を見ようと集まった人たち。Wikimedia Commons

実は、小野小町が美人であったというのは、あくまでも伝説です。そもそも、平安時代に貴族の女性が多くの人に顔を見せる機会は、めったにありませんでした。

「目鼻立ちについて具体的なことが言われがちな現代とは異なり、髪の豊かさや服装、振る舞いなど、明かりの少ないところや、やや離れたところからでも伝わる「情報」から、美しさや気品のあり方が判断されていたようです」。

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総合文化研究科の永井久美子准教授(写真提供:永井先生)

小町の美人言説も、もともとは物語上の別の人物と混同されて広がったといいます。

「美貌の女性の落魄を早くに記した漢詩文に、平安後期までに成立した『玉造小町子盛衰書』があります。この漢詩文の作者は未詳ですが、作者と老女との問答形式をとったもので、この物語の主人公「小町」が、小野小町と混同されました。混同があったのは、『古今和歌集』に収められた小野小町の歌が、『伊勢物語』の中で「色好みなる女」の歌として引かれたことの影響が大きかったと考えられています」。

知れば知るほど謎の深まる小野小町。我々は言説を鵜呑みにするのではなく、真実を見極める眼を養い、「噂」が生み出された背景を考えてみるべき、と永井先生は強調します。

「小野小町という名前は知っていても、一歩踏み込んで知ろうとすると、実は伝説的なことばかりで何もわからない人だ、ということがわかります。ネットの普及により多数の情報が飛び交う今日こそ、判断の目を養うことの大切さを改めて自覚し、疑問に思ったら立ち止まってちゃんと調べる、ということの重要性を伝えていきたいですね」。

取材・文:小竹朝子

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