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デジタル技術で明らかになる日本の原風景 150年前にも相合傘の落書きが存在していた

掲載日:2019年10月30日

日本橋を写した写真。1872年頃撮影。露光時間が長いため、手前の人物が薄い影になっている(カンマーホフ博物館モーザー・コレクション寄託、東京大学史料編纂所撮影)
 

150年前、日本はどんな国だったでしょうか?

当時、二人のオーストリア人写真家が日本で撮影・収集した写真のガラス原板ネガを見れば、イメージが湧くでしょう。手のひらサイズのこれらの原板は、現在はオーストリアでしか直接見ることができませんが、200年以上の鎖国を終え急速に近代化し始めた幕末から明治時代初期の日本を知るユニークな手がかりを与えてくれます。

東京大学史料編纂所の研究者らは、2010年以降、計7回にわたってオーストリアの博物館や図書館に足を運び、所蔵もしくは保管管理されているこれらのガラス原板を高精細デジタルカメラで撮影してきました。

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史料編纂所の保谷徹所長。編纂所エントランスに飾られた写真パネルの前で。後ろに出島が見える。英国領事エイベル・ガウワーによって1859年に撮影されたもので、通商条約によって長崎が開港される直前に撮影された出島の現存最古の写真だと思われる ©2019東京大学

オーストリアのガラス原板は日本の風景や一般市民の日々の暮らしを残すビジュアル史料として重要な意味を持っています。日本にも当時、初期の写真家が存在してはいたのですが、彼らは写真館を持ち人物の肖像写真を撮ることを生業とし、風景はほとんど撮影していませんでした。また、当時のガラス原板で現在日本に残っているものはそれほど多くはありません。

当時の写真技法では、コロジオン湿板と呼ばれる、薬品をガラスの原板に塗布して濡れたままカメラに設置する方法が用いられましたが、この手法で撮られたネガには精細な画像を残すことができました。そのため、研究チームが撮影したネガのデジタル画像を、ポジに反転してパソコン上で拡大してみると、驚くほど詳細な情報が読み取れることが分かったのです。

「写真家が最終的にプリントを作るための中間媒体に過ぎないと思われていたネガには、歴史資料として大きな価値があることが分かってきました」と話すのは史料編纂所所長の保谷徹教授。「デジタル技術の進歩、高精細なデジタルカメラの登場によって、撮影した当の本人たちも写りこんでいるとは気づかなかった情報を引き出すことができるようになったのです」。

これらのデジタル画像を引き伸ばしたプリント数枚と当時の写真技法は、10月19日に始まった港区立郷土歴史館の特別展で見ることができます。特別展は、史料編纂所が共催し日本・オーストリア修好150年を記念して企画されました。

そもそも、東京大学の古写真研究プロジェクトは、編纂所の技術職員がオランダ留学中にドイツのボン大学の名誉教授で日本史の専門家であるペーター・パンツァー先生に出会い、二人のオーストリア人写真家について話を聞いたことから始まります。

ヴィルヘルム・ブルガー(1844-1920)とその弟子ミヒャエル・モーザー(1853-1912)は、オーストリア=ハンガリー帝国の東アジア遠征隊に随行して1869年に来日。遠征隊の重要な任務の一つは日本と修好通商条約を結ぶことでした。

(左)日本滞在時のミヒャエル・モーザー(右)携帯暗室の前で作業するモーザーの姿(アルフレッド・モーザー氏所蔵、東京大学史料編纂所撮影)

遠征隊の公式カメラマンだったブルガーは数か月後に遠征隊と共に帰国しますが、弟子のモーザーはその後6年半日本に滞在し、横浜で発行されていた英字新聞『ザ・ファー・イースト』のカメラマンとして働きます。二人とも、日本にいる間は各地の写真を撮影すると共に、多くのガラス原板ネガを持ち帰りました。当時、日本ではネガは「種板」と呼ばれ、文字通り写真家の飯の種として貴重でしたが、ブルガーとモーザーにとってもプリントを作って販売するための重要な種となったのです。

幕末から明治初期の歴史を専門とする保谷先生は数年前、これらのネガの一枚をデジタルカメラで撮影して拡大した画像を見た時の興奮を今も覚えているといいます。その写真には、路上に着物を着て立つ町民数人、そして中央には人力車に乗った男性が何軒かの店の前で写っています。この写真がどこで撮られたかは長年の謎でした。というのも、この写真のプリントが1872年11月1日付の『ザ・ファー・イースト』紙に掲載された時、写真の説明には「東京の郊外」としか記されていなかったからです。

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愛宕山の西側にある「切通坂」で撮影された写真(カンマーホフ博物館モーザー・コレクション寄託、東京大学史料編纂所撮影)

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拡大された画像の一部:人力車に乗る男性

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人力車小屋の拡大画像:入口の右部分に写る細い木札には「西久保広町」と書かれているのが見える

寺の壁板の落書きの正体は?

研究者らはこの写真の原板ネガがオーストリアのバートアウスゼーという町にあるカンマーホフ博物館に寄託されていることを知りました。バートアウスゼーはモーザーの故郷アルトアウスゼーの隣町で、モーザーが帰国後写真館を開いた場所でもあります。現地に赴いた研究者らは、この原板の木札が写っている部分に高精細デジタルカメラでギリギリまで近づいて写真を撮り、パソコンで画像を引き伸ばしました。するとなんと、そこに写っている住所が見えたのです。木札には「西久保広町」と書かれており、現在の港区虎ノ門で撮影されたことが分かりました。

「ネガにギリギリまで近づいて撮ってみたのはこれが初めてで、情報が得られたときは感動しました」と保谷先生は話します。

他にも、拡大されたデジタル画像によって寺や建物の壁に書かれた落書きなども見えるように。中には相合傘の絵などもあり、150年前から相合傘の落書きが日本に存在したことが分かります。

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泉岳寺山門の写真(カンマーホフ博物館モーザー・コレクション寄託、東京大学史料編纂所撮影)

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拡大画像:中央に写る男性は指輪をはめ、洋靴を履いている

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拡大画像:山門の壁板には相合傘の落書きが

古写真プロジェクトは、歴史家と写真の専門家のコラボレーションによることもユニークな特徴。編纂所の技術職員でプロジェクトの中心メンバーである谷昭佳さんは、ガラス原板には当時使われていた薬品、写真家の指紋や画像加工の跡など、写真の技術の歴史を知るのに重要な情報が多く含まれていると話します。

コロジオン湿板写真ではまず、コロジオン(硝化セルロースをアルコールとエーテルに溶かしたもの)にヨウ化物溶液を混ぜ、ガラス原板に塗布します。原板が乾かないうちにカメラにセットして写真を撮影し、その後すぐ、現場に作った暗室で原板を現像します。その後、原板をアルブミン紙に直接密着させて画像を焼き付けていきます。一連のプロセスはいくつものステップがあり、細かな技量が必要でした。

「当時の写真家はアーティストであると同時に化学者でなければなりませんでした」と写真作家でもある谷さんは話します。

原板ネガの持つ情報

ブルガー、モーザーのコレクションには、彼ら自身が撮ったもの以外に、他の写真家から買ったりもらったりして入手したと思われる原板ネガが多く含まれています。彼らはそれらのネガからプリントした写真にも自分の名前を付けて販売していたため、写真撮影者を特定することが難しいといいます。

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史料編纂所史料保存技術室の技術専門職員、谷昭佳さん(右)と高山さやかさん(左)。中央の高精細デジタルカメラを使い、剥がれかけている画像膜にピントを合わせるのは一苦労だが、うまくいくと素晴らしい画像が撮れるためこのカメラを「巨匠」と呼んでいる ©2019東京大学

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谷さんらが当時の技法で撮影し復元したガラス原板ネガ。滋賀県の三井寺で撮影 ©2019東京大学

「そのような時、ネガ原板そのものが持っている情報が役に立ちます」と谷さん。「当時は手作り写真の時代で、写真家が薬品を自分たちで調合していたので、その種類や調合具合でネガやプリントの仕上がりはかなり違いました。ネガにはプリントでは分からないような情報がたくさん詰め込まれているのです」。

現在開催中の特別展には、研究者らが文化財撮影用の8000万画素の高精細デジタルカメラを使ってガラス原板を損なわないよう慎重に撮影し、引き伸ばしたプリントが数枚展示されています。編纂所では近く、デジタルカメラの最高峰モデル、1億5千万画素の写真が撮れるカメラを入手する予定だと保谷先生は語ります。

「高精細デジタルカメラでどこまで情報を取れるか、やれるところまでやってみたい。ガラス原板の持つ情報の限界まで、粒子レベルまで引き出したいと思っています」。

取材・文:小竹朝子

港区立郷土歴史館特別展 日墺修好150周年記念「日本・オーストリア国交のはじまり -写真家が見た明治初期日本の姿-」は、2019年12月15日(日)まで開催されています。詳細は港区立郷土歴史館ウェブサイト

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