東京大学美術作品展 | 広報誌「淡青」38号より
東京大学美術作品展
安田講堂壁画、デュシャン作品、国宝絵画からブリーフまで!
学内のあちこちにある美術作品の中から、目に見える形を持つ主なものを選び、美術研究を生業とする3人の先生に座談会形式で解説してもらいました。 それなりに見えてはいたもの、輪郭しか見えていなかったもの、全然見えていなかったもの……。トークを読みながら作品を眺め直すことで、大学が他にはない美術館になるでしょう。
ヴィンチェンツォ・ラグーザ
侯ケレル女史像
1878年 工学系研究科
ヴィンチェンツォ・ラグーザ
半身浮彫八角額
制作年不明 工学系研究科
大熊氏廣
破牢
1882年 工学系研究科
明治期の西洋美術教育の成果
- 三浦 工部美術学校が招いたお雇い外国人のうち、彫刻を担当したのがラグーザです。当時の彫刻教育は模刻が中心で、モデルをきちんと写し取ることが重要でした。01や02は、西洋人をモデルにラグーザが制作した像を学生の手本として使ったもので、傑作というほどではないですが、手堅く仕上げた感じがします。
- 髙岸 胸から上を表現する半身の肖像彫刻は、それまでの日本ではあまりない形式のものですね。
- ―― あの、ラグーザさんというのは一流の彫刻家だったんですか?
- 三浦 お雇い外国人教師の選出にあたりイタリアでコンクールを実施しています。そこで首席を取ったのがラグーザで、当然優秀だったと思います。来日時35歳で、若手の有望株だったでしょう。
- 加治屋 ミラノで開かれた全イタリア美術展で最高賞を受賞した記録があり、実力があったのは確かです。
- 三浦 ラグーザの弟子の中で最優秀だったのが、大熊氏廣。03はなかなかいい作品ですね。
- 加治屋 これは卒業制作で、19世紀イタリアで活躍した彫刻家ヴィンツェンツォ・ヴェーラの《スパルタクス》を模刻しています。大熊はその後彫刻学科の助手を務めました。スパルタクスは古代ローマの剣闘士で、奴隷戦争の指導者です。右手に短剣、右足首には足枷が見えますね。
- 三浦 工部美術学校を首席で卒業後、大熊はローマに留学し、帰国後に靖国神社の大村益次郎像を制作。日本初の西洋式銅像だとされています。
- 加治屋 大熊は東大医学部の田口和美教授のもとで解剖学を学んだそうです。
- 三浦 この見事な動感表現はそのおかげかもしれませんね
小栗令裕
欧州婦人アリアンヌ半身
1879年 工学系研究科
- 加治屋 続いて小栗令裕ですが、04は美術大学の受験でよく使われる石膏像のアリアスに似ていますね。
- 髙岸 ただ、アリアス像はもっとシンプルで、胸の装飾はありません。ちぢれた髪の量感、彫り込みの鋭さが印象的で、技術の高さを見せつけている感じです。
- 三浦 作品としては少し過剰かも……。
- 髙岸 工部美術学校の彫刻学科が技術を重視していたことの表れかもしれません。
- 三浦 05はデッサンが非常に緻密です。曽山幸彦は工部美術学校で主にサン・ジョバンニに師事しました。デッサンを重視した師匠の指導の賜物でしょう。
- 高岸 写真的な感じがしますね。袴のハイライトの部分などには金属的な光沢があります。
- 加治屋 実物は181cm×123cmというから、かなり大きい絵です。
- 髙岸 それを凝縮して見るのでより写真っぽく感じるのか。
- 三浦 工部美術学校は写実性を重視していたと思われます。
- 高岸 私は、作者の関心は身体より衣や刀にあったように感じます。肩から胸の筋肉の表現は西洋的ですか?
- 三浦 胸の厚みが乏しく少し骨張った感じは日本的ですね。
- 加治屋 弓を引くポーズはブールデルの《弓をひくヘラクレス》(1909年)を想起させます。曽山のほうが早いのですね。
- 髙岸 西洋的な特徴と日本的な特徴がミックスされた和洋折衷感を覚えます。
曽山幸彦
弓術之図
1881年 工学系研究科
土佐光信
三条西実隆像紙形
1501年 史料編纂所
歴史を伝える史料編纂所の絵
- 髙岸 06は、左下に「辛酉十四」と記され、辛酉にあたる1501年の10月4 日に描かれたとわかります。紙形とは肖像画の下絵ですね。実隆は室町時代最高の学者。60年に及ぶ日記『実隆公記』を残しており、そこにこの絵の経緯も書いています。彼は、絵師の土佐光信を邸に呼び北野天神の縁起絵巻をつくる計画の相談をした際、肖像画を描かないか、と持ちかけます。それに応じて光信がその場で描いた下絵がこれでした。本来はここから肖像画制作に入る。しかし日記には「十分に似ず。比興」とあります。「比興」は「おもしろい」「興ざめ」と両方の意にとれますが、おそらくこの場合は後者です。
- 三浦 まあ、もっとかっこよく描いてほしかったんですね。
- 髙岸 結局、光信は紙形を置いて帰った。それを実隆は読んでいた本に挟みました。そのまま本が残り、頁の間から偶然発見されたものを史料編纂所が購入したというわけです。1501年というとレオナルド・ダ・ヴィンチと同時代。この頃に日本でもルネサンスに近いスケッチがあったことを示唆する絵です。ちなみに、光信の真筆を所蔵する大学は世界で東大とハーバード大学だけです。
- ―― 地味な絵だと思っていました……。
- 三浦 完成品は残っても下絵は残らないもの。貴重です。
- 髙岸 島津家文書は史料編纂所が一括して島津家から購入し、2002年に国宝指定されました。07はその中の、薩摩の名所絵シリーズ。19世紀には、絵師が現地に行って絵を描くことが広まっていて、この絵もその類だと思います。島津家の統治エリアを記録するとともに、風景を美化して賛美する意図もあったでしょう。
- 三浦 芸術的というより地誌的な印象がありますね
- 髙岸 08は、1854年に新発田藩の元藩主溝口直諒が江戸藩邸の池に咲いた蓮の花を写生したもの。江戸時代、各地に絵の好きな大名が現れました。オランダから百科図鑑が入って博物趣味が広がり、大名自身が筆をとるケースも多かったようです。ただこの絵は西洋っぽくはなく、筆遣いは伝統的です。幕末には西洋的な表現が当然になって、図鑑的なリアルさではない絵画表現に戻っていたのかと思います。
- 三浦 蓮の花には仏教的な感覚もこめられているでしょうか。
国宝島津家文書 薩藩勝景百図
1815年 史料編纂所
溝口直諒 牡丹蓮図説
1854年 史料編纂所
史料編纂所基金にご支援を
大切な文化遺産である史料の保存・修補、データベースの整備やデジタル化には、安定的で大きな財源が必要です。皆様のご支援をお願い申し上げます。 http://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt10.html |
作品が示す数理とアートの縁
杉本博司 数学的形体:曲面0003
2004年 数理科学研究科
©Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi
- 加治屋 数理科学研究科は19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツで作られた石膏の幾何学模型を所蔵しています。数学上の曲面を可視化したもので、東大のコレクションはゲッティンゲン大学のものなどとともに最も充実したものの一つだそうです。写真家の杉本博司さんは博物館のジオラマや蠟人形など、模型を白黒で撮る作品を展開していて、09もその一つ。実際の模型は小さいですが、作品で見ると壮大に感じます。エルンストやマン・レイ、ガボやペヴスナーなど、幾何学模型に興味を持つアーティストは少なくないです。
- 三浦 陰翳が強く、非常に立体感が強調されていますね。
- 加治屋 ヤマダ精機という会社が数理科学研究科と共同で現代の技術で再現した幾何学模型が、数理科学研究科や、杉本さんがデザインした表参道の商業施設のエントランス空間に展示されています。数式が美しい形を持っていて芸術家の関心を惹くのはよくわかります。
- 三浦 杉本作品からはデュシャンの概念芸術に通じるものを感じます。
- 加治屋 10の「うつろひ」というコンセプトは1978年のパリの展覧会にさかのぼります。当初はワイヤーではなく真鍮の板を使っていました。宮脇さんの代表作で、群馬県立近代美術館なども所蔵しています。空に線を描きたかった、とご本人は語っていました。
- 三浦 直線的で硬質な建物の中庭にやわらかな曲線の作品があることで、見た人はほっとする感じがすると思います。
- 髙岸 学内にある現代アート作品としては最大級ですよね。
- 三浦 屋外にある作品はメンテナンスが心配ですが。
- 加治屋 少しさびてきたので、対応を検討しているようです。
- 三浦 美術作品の保全は東大全体の課題ですね。
宮脇愛子 うつろひ
1995年 数理科学研究科
平川滋子 五つの赤い宇宙
1999年 数理科学研究科
美術を揺るがす作家の代表作
- 三浦 12はデュシャンの代表作です。フィラデルフィア美術館にあるオリジナルから3つのレプリカが生じましたが、これは3つ目の「東京バージョン」です。美術評論家の瀧口修造さんが発案し、東大と多摩美術大学が共同で制作しました。瀧口さんがデュシャンの生前にレプリカ制作の約束をしていたので、夫人が許可を出した、と伝えられています。
- ―― どう見ればよいのかさっぱりわかりません。
- 三浦 解釈は見る者に委ねられています。本人が構想メモを残しましたが、作品と完全には一致しません。
- 加治屋 一般に了解されているのは、下半分が独身者の領域を、上半分が花嫁の領域を表すということです。独身者の欲望が上の花嫁へと向かうが、成就されないで終わってしまう、と。
- 三浦 性愛の不毛が主なテーマだ、とはいえますね。
- 加治屋 下部左の雄の鋳型で表された独身者の欲望は三角錐の濾過器を通って落下し、右の検眼表から上昇して上部に射撃の跡を残します。「毛細管」「射撃の跡」「換気弁」に偶然性が用いられています。
- 三浦 オリジナルには大きなひびがあります。運送途中に偶然入ったものですが、デュシャンはこれで作品が完成したと喜んだそうです。作者の意図をミニマムにして偶然的な要素を入れたい、という意図でした。
- ―― ……やはり難しい作品ですね。
マルセル・デュシャン
花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも(大ガラス)
1980年 駒場博物館
1.花嫁/雌の縊死体
2.銀河/高所の掲示
3.換気弁
4.9つの射撃の跡
5.花嫁の衣装/水平線
6.独身者たち/9つの雄の鋳型/制服と仕着せの墓場 a 僧侶 b デパートの配達人 c 憲兵 d 胸甲騎兵 e 警官 f 葬儀人夫 g カフェのドアボーイ h 従僕 i 駅長
7.水車のある滑溝
8.毛細管
9.漏斗
10.はさみ
11.チョコレート磨砕器
12.トボガン(未完成の要素)
13.眼科医の証人/検眼表/マンダラ
西洋画を消化した日本画の妙
- 三浦 13は強調したい作品です。旧制一高は明治20年代に、歴史倫理教育の教材として近代日本画を30点ほど購入しましたが、その一つがこの絵です。フェノロサや岡倉天心の教えに従い、西洋の影響を取り入れた新しい日本画を創始し、東京美術学校の初代教授として横山大観、菱田春草らを指導したのが橋本雅邦。この絵では、奥行きのある空間表現、明暗法、事物の写実性など、近代日本画再生のために西洋絵画の刺激を入れようとしたフェノロサらの方針が窺えます。石橋財団のご支援を受けて、2018年、近代日本画コレクション全体の修復が終わりました。
- 髙岸 画題は歌人・西行の有名な句「心なき身にもあはれはしられけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮」です。鴫たつ沢は現在の湘南エリア。鎌倉時代の「西行物語絵巻」を西洋画風に落とし込んだ作品です。
- ―― この人は顔がかなり小さいですよね。
- 髙岸 西洋風ですね。空気遠近法的な靄のかかり方もそう。一方、右手前に人物がいて、左に水面があって空間が左奥に抜けるのは、日本の屏風や絵巻によくある構図。うまい構成です。
- 三浦 これだけ大きい人物も特徴的。過去の日本画だったらもっと小さく描かれたはず。
- 髙岸 画面に対して人物を大きく描くことで遠近感が強調されている。西洋の歴史画に出てくるような描き方です。
- 三浦 日本画と西洋画の絶妙なブレンドが光りますね。
- 加治屋 日高理恵子さんは日本画出身で、14も紙に岩絵具で描いた絵です。樹を見上げたときの包まれたかのような感覚を描いており、隣の矢内原公園の木々と照応しています。
- 三浦 図書館という本の森のなかに自然を持ち込んだ感じがしますね。
橋本雅邦 西行法師之図
1892年(受入年) 駒場博物館
日高理恵子 樹の空間からV
1998年 駒場図書館
実は魅力的な大壁画が駒場に
- 三浦 続いて、15は駒場を代表する巨大壁画。今関さんは旧制一高を中退して画家となった人です。渡欧から帰国し、1969年に駒場図書館に飾るために描いたのがこの絵。19世紀フランスのアカデミスムの群像構図に近く、古典的な歴史画を思わせます。ピラミッド型の人物配置を全体にも部分にも適用し、大人数なのに整然と見せた。違和感があるのはブリーフとレオタードですね。西洋なら裸体で描くところです。大学に置くので裸は避け、体育という健康的なイメージで表したのでしょう。
- 加治屋 白馬に乗った人もいて、幻想的です。アナクロな味わいが逆に面白いですね。
- ―― DA PUMP「U. S. A.」のダサかっこよさを連想しました。
- 加治屋 そうですか(笑)。
- 三浦 実は、この絵を入学当時に見て「ついていけない」と感じたのを覚えています。青春を極端に理想化した姿だな、と。
- 加治屋 1969年というと学生運動が盛んだった時代ですよね。中央の片膝の人物は何か読み上げ、それに対して左の人物が宣誓しているように見えます。
- 三浦 今関さんは故人なので実際の意図を聞けないのが残念です。
今関一馬
青春
1969年 駒場ファカルティハウス
小杉未醒
湧泉、採果
1925年 安田講堂
歴史ある大学にいい壁画あり
- 三浦 16は東大を代表する壁画。歴史のある大学にはいい壁画があるもので、たとえばソルボンヌ大学にはピュビス・ド・シャバンヌの壁画《芸術と学問の聖なる森》があります。小杉はパリに行きましたし、シャバンヌを格調高い画家と評価していました。意識したのは間違いない。《湧泉》は入学、《採果》は卒業を意味すると思います。学問に触れて知の泉が湧き、いろいろ学んで最後に果実を収穫する。人物を自然の中に配置する構図で、大学にふさわしい主題を考えたと思います。変形のキャンバスに描くのは難しいですがうまくまとめています。
- 加治屋 これも修復したんですよね。
- 三浦 20世紀中は注目されなかった壁画ですが、ようやく関心を呼ぶようになり、修復された。今後も大事にしたいですね。
- 髙岸 18は銅版の上に油彩で描かれたという珍しい作品。ザビエルらの宣教師が来日し、布教に使う聖画像を描かせるために、日本の10代の若者を絵師として養成しましたが、その一人が丹羽です。初めて西洋の陰翳表現や立体表現を学んだはずですが、見事に技術を吸収しています。
- 三浦 イエス・キリストの肖像ですが、当時の日本の青年がここまで描けるというのは驚きです。
- 髙岸 結局、江戸幕府によるキリシタン追放でこうした技術も途絶えます。数十年だけ日本にこういう絵画術が存在したわけです。手本とした西洋の版画よりも表情が優しいといわれています。
小杉未醒
動意、静意
1925年 安田講堂
ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ)
救世主像
制作年不明 総合図書館
ポール・クローデル
雉橋集
1926年 人文社会系研究科
元久印
柳に鵯図扇面
室町時代 人文社会系研究科
住吉如慶・具慶
竹取物語絵巻 かぐや姫の昇天
1649年 人文社会系研究科
文学部が受け継ぐお宝絵たち
- 髙岸 19は仏文学研究室の所蔵です。
- 三浦 20世紀フランスの詩人・劇作家であるポール・クローデルが東京で編纂し、画家の富田渓仙が絵をつけた詩画集ですね。クローデルはフランス大使として日本に赴任したこともあり、日本の文化に詳しかった。俳句にも興味を持ち、俳句を取り入れたフランス語詩を残しました。これは全部で240部印刷されたものの一部ですが、クローデル自筆の文字が渓仙の筆と一体となって一つの世界を創り出しています。
- 髙岸 20の印にある元久という絵師は、おそらく狩野元信の弟子か親族です。16世紀前半から半ば、狩野派は大きな工房でこの手の扇を大量生産し、印を押して狩野ブランドとして売っていました。これはその一つで、もとは屏風に貼ってあったものです。水墨画としてよく描けていて、柳のやわらかさ、鳥の羽のふわふわした質感がよく出ています。21の作者は住吉如慶・具慶。住吉派は土佐派の弟子筋にあたり、将軍家に仕えた正統の絵描きです。江戸時代の絵巻というのは、20~30年前まで美術コレクターが評価しておらず、主に国文学の研究者が資料として買っていました。これも入手した頃はそれほど価値が認められていなかったでしょう。それが、ここ10年ほどで再評価が進みました。美術史でなく国文学研究室にあることが歴史を物語ります。
- 加治屋 22は1977年に東大創立100周年を記念して刊行された版画集。70年代の本郷や駒場の様子を伝える作品が10点収められています。
- 三浦 三浦巌は文学部東洋史学科の出身です。パリのサロンで1970年に《薬師寺の塔》で銀賞を、1971年に《パリ風景》で金賞を受賞。日仏で活躍した水彩画家です。
- 髙岸 学内に高層建築群が建つ前の風景。東大紛争後の平和を取り戻した時代の空気が漂います。
- 三浦 建物だけでなく、必ず緑を入れてやわらかく仕上げた嫌みのない絵です。
- 髙岸 名所絵葉書的ですが、好感を持って見られますね。
- 三浦 23・24の高島は、農学部水産学科を首席で卒業し、銀時計をもらえるはずだったが断ったという逸話が残ります。孤高の画家人生を歩み、画壇とは無縁でしたが、最近再評価が進んでいます。蠟燭を描いたものが有名ですが、非常に写実的かつ神秘的で、精神性を感じさせる画風です。根底には仏教の慈悲の思想があったようです。自然を描いて宗教性を感じさせる画家は多くないと思います。この絵も見ていて引き込まれます。
- ―― ご本人が医科学研究所附属病院に入院したことがあり、そのご縁で寄贈されたそうです。
- 三浦 素晴らしいものをいただきましたね。
高島野十郎 満月
1963年 医科学研究所
高島野十郎 林辺太陽
1967年頃 医科学研究所
東大ゆかりの作品を次代にも
- ―― さて、これまで見てきていかがでしたか。
- 三浦 東大ゆかりの人の作品が思った以上にありますね。ご縁ありきで入ってくるゆかりの品を今後も大事にしたいと思いました。
- 加治屋 教育・研究目的で入ったものも少なくないですね。今もどのくらい受け入れているのか気になりました。他大ではもっと充実したコレクションを持つところもありますが。
- 髙岸 プリンストン、ハーバード、イェール大学などは大規模な美術館といえるレベルです。年代的にも体系的にも欠けているピースを集めるという戦略が昔からあったそうです。
- 三浦 財政面でのサポーターも強大ですしね。
- 髙岸 東大にある作品の多くは、美的な関心から集めたわけではなくても、次々に再評価されてきています。そこに希望 がある。今は光が当たっていないが今後評価が高まるものがきっと他にもあるでしょう。木下直之先生が学内の造形物を次々と掘り起こしてくれたので、残る我々も引き継いで耕したい。
- 三浦 普通、興味はいま価値があるものに向きます。大学はそういう価値観ではないからいいのかもしれない。
- 髙岸 無欲で集めることのよさですね。でも無欲であるがゆえに作品が散逸したり傷んだりするのはいけません。
- 加治屋 そう考えると《きずな》を失ったのが改めて残念です。戦後日本美術を考える意味で大変重要な作品でした。
- 三浦 今後は大学も少し欲を持ったほうがいいかもしれません。その上で価値を教育・研究に還元していくことを心がけていきましょう。
(2019年1月18日、駒場博物館にて)
25.寺院の壁面に同形同サイズで配列された千体の仏の一部。横を見つめる瞳の表現が特徴的。中国新疆ウイグル自治区ホータン出土/伝ル・コック将来品/7世紀頃/東洋文化研究所
26. 高昌国の古墳から出土した俑と呼ばれる人形の一つ。木片に粘土を巻いて整形したもの。中国新疆ウイグル自治区トルファン出土/大谷探検隊将来品/唐時代(8世紀)/東洋文化研究所
27. 宇宙が誕生し膨張する様子を表現したワイヤーアート作品。理学部1号館1階で鑑賞可。2011年/理学系研究科
28. クジラ、ウミガメ、ウミネコ……あらゆる命の起源である海が大槌のセンター新棟の入口に。2018年/大気海洋研究所附属国際沿岸海洋研究センター
29. リオのキリスト像のスカート内を計6枚で描く構想の最下部。上の5つの曲線は足の指。先端科学技術研究センター
30. フランスで活躍した画家が、故・猪瀬博教授の文化功労者顕彰の記念に制作し寄贈した作品。1986年/山上会館
31. 小石川植物園にあるニュートン由来のリンゴを題材に、総長応接室のために作られた一作。2003年/山上会館
32-33.棟内と棟の外壁に4つの加藤作品と2つの佐藤作品を展示。31の大野作品も3作品あり。物性研究所
工部美術学校時代の絵画・彫刻教育資料 角田真弓/文 日本最初の西洋美術教育機関である工部美術学校をご存じでしょうか。実は工部美術学校の教育資料は、工学系研究科建築学専攻に引き継がれています。 産業革命後の英国を肌で感じた伊藤博文、山尾庸三により、近代工学教育機関の設立が建言され、それを受け明治6年、工部省工学寮に工学教育機関である工学校(後の工部大学校)が開校します。一方で工学寮には「欧州近世の技術」を「百工の補助」とするための美術校(後の工部美術学校)も明治9年に設けられます。工学校はイギリス人教師で占められますが、美術学校はイタリア人教師を迎え開校しました。翌10年1月には工部省工学寮が工作局管轄となり、工作局美術校と改称、さらに6月には工部美術学校と改称されます。 しかし当初の構想は叶うことなく、いくつかの事情が重なり、明治15年には最後の彫刻学科生徒が卒業・修業をし、翌16年1月には画学科生徒が修業して廃校となりました。 この廃校を受け、同じく工部省にありました工部大学校に工部美術学校の教材や制作品が移管されます。これらの旧工部美術学校所蔵品は、工部大学校の後継機関である工科大学時代に造家学科(建築学科)の管理となり、現在も工学系研究科建築学専攻が所蔵しています。 具体的な資料をいくつか紹介しますと、彫刻学科の教育資料として、イタリアから将来した石膏像のほか、お雇い外国人教師ヴィンチェンツォ・ラグーザの《侯ケレル女史像》、《半身浮彫八角額》や、学生であった小栗令裕の在学中の作品である《欧州婦人アリアンヌ半身》、靖国神社の大村益次郎像で有名な大熊氏廣の卒業制作である《破牢(スパルタアニベーラ全身)》などを所蔵しています。また画学科の教育資料としては、模写の手本とした画手本や解剖図のほか、工部美術学校廃校後は工部大学校博物場に勤務し、後に工科大学造家学科において自在画を教授した曽山幸彦によるコンテ画《弓術之図(弓を引く人)》などがあります。 これらの資料群は作品としての評価はもちろんのこと、日本における西洋美術教育受容期を知る上での貴重な一次史料でもあり、多くの雑誌やテレビ、展覧会で紹介されてきました。 現在建築学専攻では「デジタル・ミュージアム」準備室を設置し、これら工部美術学校教育資料はもとより、工部大学校造家学科、工科大学建築学科時代の教育資料の公開を進めています。 |
60年以上続く中国絵画撮影プロジェクト
東洋文化研究所の東アジア美術研究室では、世界各地にある中国絵画を撮影する取組みを約60年間も続けています。これまでにアーカイブされた点数はなんと約20万点。その成果は調査カードの形で保管されて国内外の研究者に活用されているほか、東京大学出版会の書籍『中国絵画総合図録』正編(全5巻)・続編(全4巻)にまとめられ、中国絵画研究者にとっての必備の書となっています(現在刊行中の三編は2020年に完結予定)。 |
その他の作品たち
誌面で紹介したのはほんの一部で、学内には他にも様々な作品があります。たとえば本郷。医学部附属病院管理・研究棟の外壁には、2人の彫刻家による医学にちなんだレリーフが。南側が日名子實三の《長崎への医学の伝来》、北側は新海竹蔵の《診療・治療・予防》です。日名子實三は平和の塔や日本サッカー協会の八咫烏エンブレムの作者として知られます。新海竹蔵は、工学部前のコンドル像やバス通り沿いの青山胤道像の作者・新海竹太郎を伯父に持つ彫刻家。総合図書館の入口外壁にあるレリーフ、3階にあるメダリオンも彼の作品です。3階にはほかにユーゴーの胸像、パスツールの胸像、小泉八雲のレリーフ、ブランデンのレリーフもあり、1階の記念室にはインドのネール首相が本学を訪れた際に寄贈したラビンドラナート・タゴールの肖像画がかかっています。構内のあちこちにある肖像彫刻については木下直之先生が『博士の肖像』(東京大学出版会)で詳しく解説済。キャンパスは美術系トレジャーハンティングに最適です。 |