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東大映画研究Now/マチュー・カペル 日本映画に独特の姿と形をもたらした高度経済成長期という新しいパラダイム

掲載日:2022年4月5日

UTokyo映画祭2022
カンヌやベルリンでやっているものとは違う、大学ならではの映画祭です。用意したのは、映画監督と研究者の対談、映画研究者4人による研究紹介、映画人として活躍する卒業生紹介、研究者12人が薦める映画作品集……。映画と大学の掛け算の成果をご覧ください。3、2、1、アクション!

日本映画に独特の姿と形をもたらした高度経済成長期という新しいパラダイム

マチュー・カペル/文
総合文化研究科 准教授

Mathieu CAPEL

カペル先生の著書
『日本脱出 1960年代の日本映画』
(Les Prairies ordinaires)2015年

松本俊夫『つぶれかかった右目のために』
図版提供:NPO法人戦後映像芸術アーカイブ

「映画は何を考えているのか?」。映画研究者のジャック・オーモンは1996年に問いかけました。この問いを引き継ぎながら別の言い方にしてみましょう。大衆によっても映画批評家によっても、映画史の120年はおよそ十年ごとに区分けして語られてきました。たとえば、60年代の映画が考えていることは、50年代の映画が考えていることと違うのでしょうか。違うとすれば、それは、なぜ、いつ変わったのでしょうか。

映画の「考え方」は、ストーリーや内容にとどまらず、画面に現れるフォルム(形式)やフィギュール(姿)にあります。その観点から、より複雑な語り方が必要になるでしょう。通常の映画史では、1960年の安保闘争と同時期に大島渚、吉田喜重、篠田正浩らが代表する「松竹ヌーベル・バーグ」が登場したことで急に映画が変わり、1970年の安保闘争と同時期に映画産業の停滞が強まったことで60年代映画が終わった、と語られます。フォルムとフィギュールは別の生理的リズムを持つように見えます。その限りにおいて、例の50年代映画や60年代映画というカテゴリーは無効化されます。当時、確かに映画表現は変わりましたが、それは、新しいパラダイムとしての、あるいは新しい言説空間としての高度経済成長期ができたから。高度経済成長期は日本映画に独特のフォルムとフィギュールをもたらしました。

高度経済成長期の新しさは、松本俊夫監督のいう「日常のヴェール」に隠蔽された秩序として発見され、新世代の映画監督たちは、人々は無意識な構造に支配されると断言しました。そして、映画の使命はそうした「ヴェール」を破り不可視性を可視化することとなりました(それは少なくとも19世紀以降の芸術の古典的な役割に似ている)。さて、可視化された景色はどう見えたでしょうか。

世界はどこまでも断片化しつつあります。その断片は、三次元的なものではなく、札のように表面的なものです。その現象は勿論、人間にも見えます。職業、都市計画、交通機関、行政などによって人の身体は解体し、流通する品物となりました。マスメディアと消費社会に深く関わるその新しい状況は、「世界の粒子状態化」と名づけられました。その特徴は、限りない断片の増殖、一様化、表面化、フラクタル化。これがどんなに映像の大量生産に似ているかは誰の眼にも明らかでしょう。

結果的に、思考が用いてきた概念、または二項対立(論理学の法則である無矛盾律まで!)は無効になります。階級のヒエラルキー、新封建制の圧迫、家庭構造の変容のような戦後映画のテーマは依然として存在しますが、新しい粒子状態が登場したため、本来持っていた意味は不可逆的に変わります。その転換こそは「60年代映画」、というより「高度経済成長期映画」の根本的な意味を定義します。それ以後の「世界の粒子状態化」が、表面に魅惑された80年代にはどうなったのか、というのが、現在の私の研究にほかなりません。

吉田喜重『日本脱出』 DVD 3,080円(税込)
発売元・販売元:松竹 ©1964 松竹株式会社

増村保造『巨人と玩具』  DVD ¥3,080(税込) 発売元・販売元:KADOKAWA ©KADOKAWA 1958

断片化、増殖、表面化、二次元化など、すなわち新しいパラダイムとしての高度経済成長期がもたらした形式は如何に人をうろたえさせたか、如何に人間体験を根本的に覆したかは、吉田監督、松本監督または増村監督の映画作品において早くも見事に映像化され、その転換に関する貴重なドキュメントとして残ります。

 

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