18世紀の日本に生きた儒者の井上金峨は「己必ずしも是ならず、人また必ずしも非ならず。己の必ずしも是ならざるを以て、人の必ずしも非ならざるを悪めば、則ち既に愚なり。況や己の非を以て、人の是を悪むをや。如し人みな己と同じなれば、則ち千万人有りと雖も、亦た一人のみ。何の益かこれ有らん」(『霞城講義』) と述べています。前半では、自分が正しいとは限らず、他人が誤っているとも限らないという不確かな立場にありながら、他者を非難することの愚かさ、さらには自分の誤った考えに基づいて本当は正しい他人を責める行為の、さらなる愚かさが強く批判されています。後半に見える、人が皆同じであったら、それは結局「一人」にすぎず、何の益も生まれないという指摘は、自分と異なる他者を否定せず、むしろそれを肯定して積極的に向き合う姿勢の重要性を説いています。
実は、江戸時代において人間同士の差異に対して鋭敏であったのは金峨だけではありません。異なるものに積極的な関心を寄せ、それを評価しようとする態度は、明治時代の明六社の社員を待つまでもなく、金峨以前の儒者、たとえば伊藤仁斎や荻生徂徠にも見られます。
本書は、こうした「尊異」、すなわち差異を認識し、他と異なるということに価値を見いだす発想に着目し、その視座から18世紀以降の日本の儒学思想について研究したものです。
しかし、「尊異」が存在した一方で、それに対抗する、いわば反「尊異」とでも呼ぶべき思想潮流もまた有力でした。本書では、この点についてもあわせて検討しました。朱子学の「理」、すなわち唯一の真理を明らかにしようとする信念に基づき、差異の価値を否定する「異学」批判の姿勢です。江戸時代後期になると、そのような立場のもとで「窮理」の意義が再び強調されるようになります。
以上の「尊異」と「窮理」の動向は、江戸時代の儒者たちの中国認識のあり方、およびその変容の過程と密接に関わっています。その側面についても解明を試みました。複線的な思想史叙述を展開したことが、本書の特徴です。また、「尊異」を中心に据えた思想史研究は、寛容や多様性が求められる現代社会において、相互理解を通じた共存の実現のために、個人と社会のあり方を再考する営みにも深く寄与しうると考えています。
(紹介文執筆者: 王 杏芳 / 2026年10月15日)
本の目次
牽牛花
差異意識
自由な思想市場
課題・対象・視点
第一章 近世における「尊異」の思想――山﨑闇斎・伊藤仁斎・荻生徂徠をめぐる考察――
はじめに
一、「崎門の絶交」
二、伊藤仁斎の「全交」
三、『論語徴』における荻生徂徠の師弟・朋友観
小括
第二章 「雷同」を超えて「自得」へ――井上金峨を中心に――
はじめに
一、同/異
二、師と先儒
三、「訓詁」と「自得」
四、二つの礼
小括
第三章 「異学」排斥を支えた歴史認識――高志泉溟から寛政正学派へ――
はじめに
一、高志泉溟とその著作
二、高志泉溟の中国認識
三、寛政正学派の中国認識
四、儒学の経世学化と明清交替
小括
第四章 「異学」と窮理――尾藤二洲を中心に――
はじめに
一、「異学」について
二、窮理
小括
第五章 「理」のゆくえ――古賀侗庵と阪谷素――
一、窮理の歴史――古賀侗庵
二、「窮気」と「公理」――阪谷素
小括
終章
一ツモ同容ナル者無ク、同質ナル者無シ
「悪異好同」「諂諛」
結び
関連情報
第6回東京大学而立賞受賞 (東京大学 2025年)
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/research/systems-data/n03_kankojosei.html



