私たちは、自分自身がなにものであるかを問う。他者がどのような存在であるのか知り、つながり、反発する。過去を振り返り、文化を創造し、未来を構想する。人文知とは、その営みを覆う世界を読み解き、再構築していくことで生み出される知である。
人文知の中でも、心と言葉をめぐる問題は、私たちを人として成り立たせ、世界の再構築の出発点となることがらを対象とする点において、基本的で重要な位置づけを持つものだ。自他を高度に理解する心を持ち、言葉を操ることは、人間を他の存在から区別する本質的な属性のひとつだろう。心があるから、私たちは他者とつながり、世界を理解し、文学や芸術に感動することができる。言葉があるから、他者と世界を共有し、感動を伝え、未来に向けての構想を作ることができる。心と言葉は、私たちが世界とかかわり、創造的な営みを行うための、大切な「道具」なのである。
しかし、心と言葉をめぐる問いに答えるのは簡単なことではない。それらが紡ぎだす世界は、その豊かさと複雑さゆえに、正体を見極めることが難しい。本書のタイトルにあるように、迷宮をさまようかのようだ。少し光が見えたかと思うと、落とし穴にはまり、また、道がいきなり左右に分かれ、もとの問いすら見失うかのような、明確な答えのない場である。
それでも、心と言葉の迷宮はさまように価する場所だろう。複雑な迷路の中に見えてくるものは、人間とは何かという根源的な問いに関する洞察だから、そして、心と言葉ゆえに、私たちは、世界を混沌から有意味なものへと変換できるから。
本書は、そのような問いに取り組んできた研究の成果を、わかりやすく論じたものだ。「心理学」や「言語学」、「文学」といった心や言葉を直接の研究対象としているものだけではなく、哲学、美学、美術史学、社会学といった領域においても、心と言葉は探究の中核にある。各章は、これら人文学の多様な領域で、自らの「心と言葉」をもって思索を重ねてきた著者たちが提示する迷宮の見取り図である。その見取り図を手がかりに、読者は迷宮の中に導かれ、さまよい、世界を自らの心と言葉を持って読み解くだろう。
なお、本書は全三巻からなる「シリーズ人文知」の第一巻でもある。シリーズは、第二巻「死者との対話」、第三巻「境界と交流」へと続いていく。「死者との対話」では、過去と未来をつなぐ人文知の姿を提示する。私たち以前に生きた人々、すなわち「死者」の声を聞くことで、その末裔として、そして過去と未来との中継点としての私たちを再発見するだろう。「境界と交流」では、自と他の葛藤と融合の歴史を解き明かすことにより、他者との交流により成り立つ「私」を見出すだろう。かくして、心と言葉の迷宮から抜け出し、「私」は時間と空間を超えて広がる人文知の世界へと導かれることになる。あわせて読んでいただければ幸いである。
(紹介文執筆者: 人文社会系研究科・文学部 教授 唐沢 かおり / 2016)
本の目次
I 問題の原型
1 心はいかに自己と他者をつなぐのか (唐沢かおり / 社会心理学)
2 心・言語・文法 -- 認知言語学の視点 (西村義樹 / 言語学)
3 心が先か言葉が先かの対立を終わらせる一つのやり方について (戸田山和久 / 科学哲学)
II 問題の展開
4 こと・こころ・ことば -- 現実をことばにする「視点」(木村英樹 / 中国語学)
5 言葉によってどのように「心」が表現されるのか (渡部泰明 / 日本文学)
6 ことばは社会と文化をどのようにつくり変えるのか -- 社会問題の構築(赤川 学 / 社会学)
III 問題の拡大
7 イメージ / 絵画は「心」の交感の場 (小佐野重利/美術史学)
8 音楽はどのように言葉や図像とかかわるのか -- ベートーヴェン《月光》をめぐるマルチメディア的想像力 (渡辺 裕 / 美学芸術学)
9 古代中国人の言語風景 -- 空間と存在の関わり (大西克也 / 中国語学)
あとがき (唐沢かおり)