著者のハニフ・クレイシは1954年ロンドン生まれの作家。父親がインドのムンバイ生まれで、ロンドンのパキスタン大使館に勤める移民、母親がイングランド人という出自をもち、自伝的小説『郊外のブッダ』(1990年) などで知られています。『郊外のブッダ』は、60~70年代のロックカルチャーを背景に、移民の第二世代を取り巻く世間の偏見や親世代との葛藤を生々しく描き、しかも同性愛などのタブーにも挑んだ野心的な作品です。本書『言葉と爆弾』の原書は2005年に刊行されていますが、その内容はテロの恐怖に悩まされている現代社会を予告したものとも言えます。なぜイスラム系移民の第二世代が原理主義に走り、残忍なテロへと身を投じるのか。この深刻かつ重要な問題について、クレイシは作家ならではの柔軟な筆致で迫っています。本書にはさまざまな長さのエッセイ、長篇小説の一部と短篇小説が収められていますが、なかでも短篇小説「俺の子が狂信者」は現代人にとって必読といってよいでしょう。この作品では、パキスタンからの移民の父親と、彼が苦労して育てた優秀な息子とのすれ違いがリアルに描かれています。息子にイギリス社会で成功してほしい父親の思いとは裏腹に、彼は西洋におけるムスリムの迫害に心を痛め、イスラム原理主義に共感を抱くのです。ちなみに、1997年に最初に発表されたこの作品は、翌年に映画化 (タイトルはMy Son the Fanatic) もされています。
本書の翻訳の話は、私がまだ東大で教える前の2008年ごろ、法政大学出版局の編集者からいただきました。18世紀イギリス文学を専門にする私に、なぜ現代作家の作品の翻訳依頼が来るのかと、最初はあまり乗り気でなかったのですが、編集者から本書の意義を説かれるうち、すっかりその熱に私も包まれてしまいました。本書を訳す過程で、1960年代から70年代のイギリス、アメリカのポップカルチャーや、アメリカの公民権運動やイギリスのマイノリティー問題について、深く知ることができました。
もっとも、一昔前の政治と文化を学べるというだけが、本書の特徴ではありません。むしろ本書の意義は、原著が2005年に刊行されているにもかかわらず、他でもない現代世界の問題を予言的に示している点にこそあります。イスラム原理主義は、ISなどの勢力が世界各地をテロの標的とするなか、日本で暮らす私たちにも切迫した問題となってきています。本書を読むことで、なぜイスラム原理主義が台頭したのかという、日本にいると理解しがたい問題に対し、当事者の視点を得ることができます。もうひとつ、現代の日本でも問題になっているヘイトスピーチやマイノリティー差別についても、パキスタン人とイギリス人の両面をもつ著者らしい、多面的な考察が加えられていて、大いに参考になります。
(紹介文執筆者: 総合文化研究科・教養学部 准教授 武田 将明 / 2017)
本の目次
虹のしるし
ブラック・アルバム
まさにこの道
俺の子が狂信者
ブラッドフォード
セックスと世俗文化
困難な対話を続けよう
文化のカーニバル
関連情報
2016年5月22日 日本経済新聞
2015年12月9日 図書新聞
2015年11月 理念と経営
2015年8月6日 週刊新潮
2015年7月19日 朝日新聞